장재형목사 설립 올리벳대학교 리버사이드 캠퍼스 최신 랜더링 공개

장재형목사가 설립한 올리벳대학교는 남부 캘리포니아에 위치한 리버사이드 캠퍼스의 최신 콘셉트 렌더링을 공개했습니다. 900에이커에 달하는 본교 캠퍼스 부지에 대한 구상은 학생 수와 전 세계 학생 수가 증가함에 따라 대학은 대대적인 업그레이드 계획을 수립했습니다. 마스터플래닝팀은 학생, 교수진, 교직원, 졸업생들의 의견을 수렴하기 위해 여러 차례 설문조사를 실시했습니다. 피드백을 통해 팀은 OU 리버사이드의 미래 캠퍼스에 대한 제안과 시각적 컨셉을 … Read more

La Prière du Notre Père – Pasteur David Jang

1. Le Dieu d’amour et la prémisse de la sainteté Le pasteur David Jang met l’accent sur le message essentiel selon lequel « Dieu est amour (God is love) », reprenant la vérité biblique de 1 Jean 4.8 : « Dieu est amour ». Comprendre l’amour de Dieu tel que la Bible le présente, et la manière dont l’être … Read more

福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演で繰り返し強調する核心的テーマは、まさに「福音」です。彼は福音を、神の御子イエス・キリストがこの地に来られ、人間のあらゆる罪や苦しみを背負って死なれ、さらに復活されることによって、人類に新しいいのちの道を開いてくださった救いの出来事全体と理解しています。彼にとって福音は、単なる宗教的教義ではなく、人類の歴史や宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的事件なのです。 福音を定義するにあたり、ヨハネの福音書3章16節はいつも重要な出発点として提示されます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された…」という御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示しています。張ダビデ牧師はこの箇所を引用し、私たちが罪のゆえに永遠に断絶されていた存在であるにもかかわらず、神が全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった点を深く黙想すべきだと力説します。私たちが福音を喜び、胸をときめかせ、同時に福音の前で敬虔な畏れとへりくだりを持つ理由は、まさしくこの神の愛の大きさによるのだ、と。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用します。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は御自身の愛を確証された」という御言葉は、人間に何らかの資格があったから神が愛を施されたのではない、ということを意味します。むしろ人間は罪の下にあり、自分の力では決して救いに至れない状態に陥っていたにもかかわらず、神は何の条件もなくイエス・キリストを遣わされたのです。ここから張ダビデ牧師は、福音を道徳的模範や宗教儀式に限定せず、徹底して恵みの出来事として認識すべきだと説きます。つまり、福音とは人間の善行や正しさによるのではなく、「神の賜物」として与えられたものである以上、そこに人間的な誇りが入り込む余地など皆無だというのです。 張ダビデ牧師は福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に現れる現場こそが十字架だと強調します。愛は口先だけで語られると空虚になりかねませんが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通じて「歴史的事実」となりました。イエスがご自分を完全に捨て去り、人間のすべての罪を担い、贖いのいけにえとなられたという出来事は、他のいかなる形の愛とも比較できない、絶対的に「比類なき」愛です。これこそが福音が伝える喜ばしい知らせの真髄である、と彼は語ります。 そして福音が愛であるならば、その愛を証しすることは、避けられない当然の義務となります。つまり、神の御子がこの地に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活されたという事実を知る者は、必然的にそれを「証言」せざるを得なくなるのです。張ダビデ牧師は使徒の働き(使徒行伝)において、弟子たちや使徒たちがどのように証言したかを例としてよく挙げます。ステパノは激しい迫害の中、石打ちによる殉教直前に至るまで、イエスこそ人類の救い主であることを語りました。ペテロは五旬節(オペンテコステ)に聖霊が下った後、エルサレム中の人々の前で福音を宣べ伝え、パウロは異邦の地を巡回しながら、福音の証しを決してやめませんでした。彼らは自分の命をかけて、どんな代償を払ってでもイエスが「真のいのちの道」であることを世に知らせたのです。 このような証言が可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験したからです。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らわれること」と表現します。福音が単に「イエスが誰かを頭で理解すること」にとどまれば、それはパリサイ派的な知識にすぎません。真の福音体験とは、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくださったことに目が開かれ、全存在が変わる出来事です。だからこそイエス・キリストを知る者は自然と福音の証人となり、この地に向かって「神の愛」を伝える使命を受けることになるのです。 張ダビデ牧師は、この福音がすべての人に開かれていることを強調します。背景や学識、道徳的資格の有無に関わらず、すべての罪人に「罪の赦しと新しいいのち」を宣言されたのがイエス・キリストの十字架だからです。特に使徒の働き2章でのペテロの説教場面にある「すべて主の名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を引用し、福音は決して特定の民族や集団だけのものではないことを確かに指摘します。こうして張ダビデ牧師が導くメッセージにおいて、「神の愛」という共通分母は、民族や言語の壁を越え、歴史や文化の限界を超え、罪の中で苦しむあらゆる人生に訪れる、全面的な恵みの実体であると示されるのです。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージである点を繰り返し思い起こさせます。すなわち、それは宇宙的規模で人類全体の運命を変えた出来事でありながら、同時に個人一人ひとりの内面と生き方を変容させる力であるということです。私たちが福音を受けて信じるとき、もはやそれは概念や教義ではなく、私たちの内に爆発する新しいいのちの力として働きます。愛を受けた者は愛を流さずにはいられず、恵みを体験した者は、その恵みを世に伝えずにはいられなくなります。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが世界に必要な「唯一の希望」であり、その確固とした土台の上に教会と共同体が建てられるべきだ、と力説するのです。 また彼は、福音を信じ従う人々の間に自ずと現れる実りとして、「互いの重荷を負い合って愛しなさい」というガラテヤ書6章2節の御言葉を提示します。福音が愛であるならば、福音を伝える人々の共同体もまた、必ず愛の喜びと一致に満ちあふれるべきだという意味です。イエスが「わたしはすでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されたとき、それは武力を用いて世を征服するという概念ではなく、愛と仕え合いによって勝利するという逆説的な意味であることを思い出させます。ゆえに教会が福音を握り締め、真に互いを愛する姿で世に仕えるとき、それ自体が世に対する強力な証しとなる、と張ダビデ牧師は強調します。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージにおいて「福音の核心は、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成させた」という宣言に要約されます。いかなる哲学的理論や倫理的教えも代替し得ない、この地上のすべての罪人に開かれている偉大な愛の物語、それこそが福音なのです。そしてこの福音の前に立たされたすべての人は、その愛の出来事に応答して変えられた生き方をするようになる、というのが彼の第一の強調点です。 罪と義、そして贖いの道 張ダビデ牧師が第二に深く扱う核心テーマは、「罪と義、そして贖い(大贖)*の道」です。(*訳注:「大贖(だいしょく)」は韓国語で「대속(テソク)」、英語の“atonement”や“redemption”にも近い概念。) 福音が愛であるならば、なぜ人間にはそのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力ではどうにもできない「罪」の問題が横たわっているのだ、と彼は言います。 まず、罪が何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えです。聖書全体を貫く罪の概念は、単なる道徳的過ちや社会的違反行為にとどまりません。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「罪とは、神を心に留めたくないということだ」という定義に注目します。人間の中には本質的に神を背き、自分が主人になろうとする態度が深く根を下ろしており、その結果、全世界が罪の支配下に置かれたのだと彼は説明します。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として支配すること」と要約します。すなわち、人間が罪の下に置かれるならば、その結末は死であるということです。これは単に肉体的死だけを指すのではなく、永遠の滅びと断絶を意味します。だからこそ人間は、いくら善行を重ねたり律法を守ろうとしても、自分の力だけではこの罪と死の権勢に打ち勝つことのできない絶望的状況にあるのだ、と指摘します。律法は罪が何であるかを明確にし、罪がさらに鮮明に暴かれる機能を持つだけで、罪からの完全な解放はもたらしません。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「贖い(代贖)の出来事」が飛躍的に現れます。代贖とは文字通り、「誰かが代わりに代価を支払うこと」を意味しますが、張ダビデ牧師はこれを単なる商業的な概念としてだけ理解してはならないと強調します。旧約の犠牲祭(特にレビ記16章の贖罪日)において、いけにえの動物を殺して血を流すことで民の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架において「完全な形」で実現したというのです。つまりすべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスが自ら引き受けてくださったということです。 張ダビデ牧師がローマ書5章18~19節をたびたび取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためです。「ひとりの人アダムによって全人類が罪に陥ったのに対し、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義と認められ、いのちにあずかることができるようになった」というパウロの宣言こそ、その核心です。これは、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味します。 張ダビデ牧師は、代贖の本質こそが「愛」であると補足します。もし贖いをただ律法的視点で理解しようとすると、私たちがイメージするのは「公正な裁判官」が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないため、誰かが代わりに代価(血)を支払ったという、どこか冷たい取引のような構図になりがちです。しかし十字架でイエス・キリストが血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまりません。それは神が私たちにくださった「全面的な贈り物」であり、イエスご自身が喜んで差し出された「自己犠牲的な愛」なのだ、と張ダビデ牧師は語ります。この点を理解するとき、私たちは十字架の出来事がこれほどまでに巨大な衝撃力を持つ理由を、ようやく悟るのです。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれます。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義認(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に合致します。彼は、私たちが福音を受け取る瞬間、もはや「罪人」の立場にはとどまらず、神の前で「義人」と宣言されるのだと言います。これは私たちの内面に実際に完全な道徳的完璧さが生じるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからです。義が「転嫁(転加)」されるという神学的概念が、現実に適用されるわけです。 張ダビデ牧師はまた、ヘブル書にある「営の外に出よう」という表現を好んで引用します。旧約の犠牲祭において、罪を負わされたヤギや羊は宿営の外に追いやられて殺されました。イエスもまた、エルサレムの城門の外、ゴルゴタの丘で十字架につけられることによって「贖いの羊」としての役割を全うされたのです。「私たちもあの営の外へ行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を自分も受け継ごうとする挑戦として読むことができます。 ここで重要なのは、贖いを単なる神学用語として学び、頭で理解するだけにとどまらないことです。張ダビデ牧師は、贖いこそが福音の心臓部であるからこそ、私たちもイエスが歩まれた道を見倣うべきだと言います。すなわち、この地上で福音を生きるとき、互いの重荷を負い、時には迫害や誤解に耐えつつも愛をもって仕える生き方を選ばねばなりません。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちの生き方として取り入れる具体的な表現なのです。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできませんが、イエスがそうされたように、愛によって、自分を差し出しながら「営の外」へ進む姿勢によって、世を癒すことができるのだというのです。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結びつくときにこそ完全に成就される点を繰り返し強調します。イエスの十字架の出来事が人類の罪を代わりに担った決定的犠牲であったならば、その復活は「死の権威さえ打ち破られた」という神の究極的宣言となります。もしイエス・キリストが死から起き上がられなかったとしたら、代贖は半分のメッセージにとどまらざるを得ません。しかし復活という出来事が実際に起こったことによって、罪と死の束縛を完全に断ち切り、新しいいのちを与える救いの力が証明されたのです。贖いが罪の赦しを意味するのだとすれば、復活はその罪の赦しを受けた者たちが得る「永遠のいのち」を保証する出来事だと見ることができます。 結局のところ、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして贖いの道」は、福音の核心的骨格です。罪の下に置かれていた人間は、律法では到底解決し得なかった行き詰まりを抱えていましたが、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によって最終的に義の地位へと招かれたという宣言。さらにその義を体験した人は、自分中心の生き方を捨て、互いの重荷を負い、営の外へと喜んで出て行き、苦難の中でも愛と従順をもって生きるようになる。その道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的な方法ですが、それこそが真の救いの力となるのです。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単に個人の霊的体験や教会の敬虔な生活レベルにとどまらない、「宇宙的出来事」であるという事実です。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、ある特定の時空間で起こった歴史的事件でありながら、同時に全宇宙と歴史のあらゆる局面に影響を与える決定的転換点だというのです。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、ひとりの人アダムによって罪が全人類に広がったように、ひとりのイエス・キリストによってすべての人が「罪の赦しと義とされる道」にあずかれるようになったと説明します。これは人類の運命をひっくり返す宇宙的意義が、キリストの救いの業に内包されていることを示すものです。もし私たちが福音を「個人的な救いの体験」や「何か特別な神秘的事件」としてのみ理解するならば、そのスケールを狭めてしまうと彼は言います。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点を明確に示すために旧約の預言と福音書に出てくるイエスのエルサレム入城の場面をよく結びつけて解釈します。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来られる人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的な王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映しています。しかしイエスは実際にエルサレムに入城されるとき、ゼカリヤ書9章9節の預言どおりに「ろばの子に乗って」へりくだって来られました。これは「全能の王でありながら、ご自分の民と苦しみを分かち合う謙遜な王」という複合的イメージとして成就されるのです。 張ダビデ牧師はこの姿を「神の顕現の方法」と呼びます。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように現れ、その権力と力を誇示します。しかし神の御子イエスはむしろ最も低い者の姿で、もっとも卑しい形で入城されました。世の人々にはこれは愚かで弱そうに見えますが、神の救いの方法はこの逆説の上に築かれているのだ(コリント第一1章参照)と彼は言います。 続いて、イエスが十字架で死なれる場面は、大勢の群衆の期待とは逆にあまりにも悲惨に映りました。ローマ人も十字架刑を極悪犯に適用する「呪われた処刑」と見なし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は神に呪われた者」(申命記21章23節)という律法上の定めにより、十字架刑はメシアにふさわしい死ではあり得ませんでした。しかし張ダビデ牧師は、ここで「愛の王」であり「苦難のしもべ」として預言されたイザヤ書53章の御言葉を引用し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖いの勝利なのだと解釈します。神の全能性は人間の常識を打ち砕く形で歴史され、その究極的目的が愛と救いにあるため、十字架がむしろ栄光のしるしになるのだというのです。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせます。もしイエスが十字架で死なれただけで終わったならば、それを宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれません。しかしイエスは三日目に死を克服して甦られました。福音書は共通してこの復活の場面を描き、その結果弟子たちは恐怖から大胆へ、失意から熱心な証人へと一変しました。これはすなわち、「死」という人類に普遍的かつ宇宙的な限界を超え、新しい世界への門戸が開かれた決定的証拠となります。死という最大の敵が断ち切られ、永遠のいのちの時代が始まった以上、その影響力は個人を越えて宇宙全体に及ぶというのが彼の解釈です。 張ダビデ牧師は、いわゆるホーリーウィーク(聖週間)と呼ばれるイエスの最後の1週間に焦点を当てながら、この1週間に歴史と宇宙が凝縮されていると説明します。シュロの主日(棕櫚の主日)にエルサレムに入城されるイエスの姿から始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る流れをたどるとき、人類と歴史の運命を変える救いの物語が完結するのだ、と。特にゲッセマネの園でイエスが血の汗を流すほど祈られた場面は、イエスが十字架の道を能動的に選ばれたことを示しています。イエスは単に不当な犠牲者として引かれていったのではなく、人類の罪を担当し死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、霊的な大きな戦いを遂行されたのだというのです。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小規模で局地的な事件ではなく、すべての時代と空間を貫く「宇宙的頂点」なのだ、と語ります。この事実を悟るとき、信仰者は単に宗教儀式に参加するレベルを超えて、全存在がひっくり返るような経験をするようになります。私たちがこの地上で直面する苦しみや挫折も、すでにイエスが十字架で担ってくださいましたし、その結果、復活によって最終的に勝利してくださったゆえ、どのような状況でも絶望に閉じ込められないという希望を抱くことができるのです。 張ダビデ牧師は、最終的にこの宇宙的救いの出来事が各個人の人生にも「具体的現実」として及ぶようにと祈っています。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調するのは、「福音が『世界を変える』という壮大な言葉が、実際に教会と聖徒の日常に適用されなければならない」ということです。生活の中でイエスの歩まれた道に倣い、愛と仕え合いを実践し、復活の力を握ることがなければ、宇宙的救いの壮大さも単なる教義や理論に終わってしまう可能性が高い。しかし実生活の中でイエスの道を追随し、復活の力を掴むとき、共同体の中でも社会の中でも「神のご支配」が具体化する奇跡のようなことが起こるのだ、と言うのです。 また、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全な結論であり最終的な志向点です。張ダビデ牧師はこれを死後にだけ与えられる天国と見るのではなく、すでにイエス・キリストの復活を通して始まった永遠のいのちの支配であると解釈します。つまり、イエスを信じることで、私たちは今の地上でもすでに復活のいのちにあずかり、やがてイエスの再臨とともに完成される救いの世界に入っていくということです。こうして復活は、すでに成就されたがまだ完全には到来していない未来領域を同時に示す、「成就と緊張」を含んだ出来事だ、と彼は説明します。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を核心として記念してきました。張ダビデ牧師は、イエスが十字架に向かう道が苦難と恥辱の道であったことを詳しく解き明かしたうえで、その道は結果的に「栄光と勝利の道」につながる逆説的な結末へと至ることを強調します。イエスは正しい者としてではなく、罪人として世の罪を担われるために十字架刑を受けられましたが、その死の場でこそ宇宙的な愛と救いが爆発したのだ、と。そしてこれを信じ受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかるのだ、と宣言しています。 さらに、彼はこの復活信仰が教会共同体の中で具体的にどのように実現されるべきかも提示します。もし教会がイエス・キリストのからだであるならば、教会は「復活のいのち」を世に伝える場となるべきだというのです。すなわち、貧しい人々にあわれみと分かち合いを行い、不正な権力や世の流れに逆らって真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、世の知らない真の和解と平和を示す。それこそが復活されたイエスに従う共同体ならば必然的に現れる実りなのだ、と張ダビデ牧師は語ります。 結論として、「宇宙的出来事としての救いと復活」は、張ダビデ牧師のメッセージにおける最も広大な地平を開くテーマです。人間個人の罪の問題や義認、贖いを通じて得る自由と喜びを超えて、この出来事は歴史と宇宙全体を組み替えます。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し教えながら、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に矮小化せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け取るよう勧めます。そしてそのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が示す「逆説的愛の力」であると。どんな神話や物語も包含できない真のいのちと真理がここにあり、信じる者にとっては永遠の希望となるのです。 結び:福音という壮大な招きと贈り物 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明しながら、イエス・キリストの到来と死、そして復活がすべて罪人である人間に与えられた神の贈り物だという事実を浮き彫りにします。福音こそ、単なる教義や情報ではなく、いのちの力であり神の愛の表現であり、それを信じ受け入れる者は誰でも新しいいのちを得て、その愛を証しする者として生きるようになる、というメッセージを伝えます。 第二に、「罪と義、そして贖いの道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く省み、律法では解決できないこの問題を、イエス・キリストの贖いの犠牲によって救われることができると説きます。イエスはすべての罪人の立場を引き受けてくださり、その血潮と復活によって私たちを罪から解き放ってくださいましたという宣言は、ローマ書やヘブル書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となります。贖いを単なる法廷用語にとどめず、イエスの自己犠牲的愛として捉え、体験することで、私たちの生き方もまたそうして変わっていくべきだという勧めが核心です。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の中だけで起こった事件を超え、全宇宙を揺るがす決定的転換点であると強調します。ダニエル書、ゼカリヤ書、イザヤ書など旧約の預言と福音書が交わるところで、十字架と復活がいかに神の顕現の方法を示し、死さえも打ち破る絶対的勝利を表すのかが示されます。そして復活は、死に勝利された神の力の頂点であり、その力を信じる者は現在も、そして未来においても永遠のいのちにあずかることになると確信をもって語ります。 このように三つの軸に沿って福音を眺めると、最終的にはイエス・キリストの道こそが愛と救いの道であり、彼がお示しになった苦難と復活はすべての時代と宇宙の中で唯一の希望として位置づけられます。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして献身の生き方へとつなげるよう信徒を励まします。人生でどんな試練や誘惑、絶望に直面しても、主がすでに通られた十字架と復活の道こそが真理でありいのちの道だという確信を握りしめよ、と。そのとき私たちの人生は一変し、福音は私たちの内面と共同体、さらには社会を変革する力となるのだというのです。 結局、張ダビデ牧師のすべての教えは、「福音」という壮大なテーマを三つの軸—「神の愛」、「贖いの道」、「宇宙的救い」—へと還元して語ることができます。この三つの軸は互いに分離できず、共に絡み合いながら私たちをイエス・キリストの真の救いへと導きます。それゆえ、このメッセージを聞き、黙想する者たちは、クリスマスにイエスの到来を喜び、受難週にイエスの十字架を思い、イースターにイエスの勝利を賛美するとき、これらすべての出来事が一つの救いの物語であることを改めて悟ることになるのです。そしてそれは、宇宙と歴史、そして私たちの日常のただ中で進行している神の救いのドラマが、いかに壮麗で驚くべきものであるかを気づかせる契機となります。 このように福音は、人間の限界と罪にもかかわらず、罪人を最後まで愛してくださる神のご性質を私たちに体得させ、その愛を模範として世へ出て行き、互いに仕え合う共同体を形作らせます。贖いは罪と罰という法廷的な概念を超えて、私たちに神の子どもという新しい身分を与え、真の自由と喜びをもたらします。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を超えて世界全体に対する神のご計画を示します。その中に参加する者は、すでに新しい時代を生き始めており、やがて完成される未来を望みつつ歩むのです。 これらすべての洞察が一つに集まるとき、私たちは張ダビデ牧師が語る福音のメッセージが、単なる理論的次元を越えて、実生活のあらゆる領域を刷新する「生きた御言葉」になることを悟ります。結局、福音が必要とされる理由は、人間の歴史や宇宙が自らを救う力を持たないからです。神の御子イエス・キリストが来られ、死なれ、復活されたことによってのみ、罪と死に打ち勝つ道が開かれ、その道を歩むすべての人には永遠のいのちと勝利が与えられる—これこそが張ダビデ牧師が幾度となく宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり贈り物なのです。

The Gospel and the Love of God – Pastor David Jang

The Core of the Gospel and God’s Love A central theme that Pastor David Jang repeatedly emphasizes in his sermons and lectures is the “Gospel.” He understands the gospel as the entire work of salvation encompassing the coming of Jesus Christ, the Son of God, into this world, His taking upon Himself all of humanity’s … Read more

복음과 하나님의 사랑 -장재형목사

장재형(장다윗)목사가 설교와 강연에서 반복적으로 강조하는 핵심 주제는 바로 “복음”이다. 그는 복음을 하나님의 아들이신 예수 그리스도께서 이 땅에 오신 것, 인간의 모든 죄와 고통을 짊어지시고 죽으신 것, 그리고 부활하심으로써 인류에게 새 생명의 길을 열어주신 구원의 사건 전체로 이해한다. 그에게 복음은 단순한 종교적 교리가 아니라 인류 역사와 우주적 차원에 이르기까지 모든 것을 뒤바꾸는 결정적인 사건이다. 복음에 대한 정의로서, 요한복음 3장 16절은 언제나 중요한 출발점으로 제시된다. … Read more

圣灵的果子与福音的生活 – 张大卫牧师

1. 圣灵的果子的本质——爱、喜乐、和平 在加拉太书5章22-23节里,保罗列举了我们熟知的圣灵九大果子。他写道:“圣灵所结的果子,就是爱、喜乐、和平、忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制。这样的事没有律法禁止。”这些都是基督徒在圣灵里应当结出的果子,且彼此之间紧密相连。保罗首先提到的“爱”尤为关键。张大卫牧师也在多次的讲道中反复强调,爱乃是整合并引导其他八种果子的核心德目。纵观圣经中神拯救人类的历史,我们会发现,圣灵的果子本质上就是“神的爱在我们生命中的具体化”。因此,我们首先需要从“爱”开始,进而理解由此带来的喜乐(“希腊文中常译作‘喜乐’或‘欢欣’)与和平(平安)所构成的恩典生活。 在加拉太书5章22节里,保罗提到的首要果子是“爱”。从表面上看,这似乎与世人常挂在嘴边的“爱”别无二致,但透过圣经我们发现,这种爱其实完全处于另一个层面。世人也谈论许多“爱”,却常常掺杂着人性欲望或情感的因素;然而圣经所言之爱,是神借着基督所彰显的“阿加佩之爱”。这是无条件的爱,通过耶稣基督在十字架上为罪人舍己的事件得到最清晰的体现。罗马书第5章说:“当我们还做罪人的时候,基督为我们死,神的爱就在此向我们显明了。”张大卫牧师常常引用这段经文,反复宣讲神的爱何等浩大,远超人力无法测度,而这正是福音的核心。我们之所以要在圣灵里结出首要的果子“爱”,原因便在于此。 为什么说“爱”在圣灵的果子中居于首位,并且整合了其余所有果子?哥林多前书第13章最美好、最清晰地阐述了爱的崇高地位。保罗说:“若没有爱,我就算不得什么。”即便拥有诸多恩赐或知识,甚至行神迹奇事,若缺乏爱,都不过是徒然。爱永不止息,爱完全临到之时,我们也得以完全认识神。在此,“认识”(在希伯来语中常用“yada”一词)也和“相爱”密切相关。在旧约圣经中,“某人认识他的妻子”不仅仅指知道对方而已,更强调彼此亲密地相爱。同样,耶稣也曾问彼得:“你爱我吗?”彼得回答:“主啊,你是无所不知的。”这里“知”与“爱”又连结在一起。主认识我们,也就是祂爱我们;基于这份爱,我们才得以认识主、爱主。 张大卫牧师常从这个角度强调,基督徒的爱并非源于人先发起的意志,而是因为神先爱了我们,在祂的爱里我们才学会去爱。只有在“神先认识并爱了我们”这一认信的起点上,圣灵的真爱才能在我们心里扎根。有了这样的爱,保罗所提到的喜乐与和平,以及之后的所有美德,才能够正常地绽放出来。爱绝不孤立存在;在爱中自然会流露出喜乐,这喜乐也会向周围扩散,最终带来和平。 第二种果子“喜乐”与“爱”可谓硬币的两面。被爱的人会喜乐,施爱的人也会喜乐。人按神的形象被造,当我们浸润在真爱之中时,就能享有最深的喜乐,这并非世俗的快乐,而是属灵的真正喜乐。正如耶稣在约翰福音15章11节所说:“我对你们说了这些事,是要叫我的喜乐存在你们心里,并叫你们的喜乐得以满足。”当我们住在神的爱里时,我们所得的喜乐,超越一般情绪上的欢愉,它乃是“主的喜乐”充满在我们心中。当教会在圣灵里真实合一,张大卫牧师指出,群体之中会自然而然地涌现喜乐,而这正是世人所无法触及的属灵生机。透过这种喜乐,人们能在教会里遇见又真又活的主。 第三种果子“和平”就是我们常说的“平安”。但是正如耶稣在约翰福音14章27节所言:“我所赐给你们的平安,不像世界所赐的那样”,因此这里的“和平”并不受世俗条件或环境支配。世界所言的平安,往往是指“没有战争的状态”或“物质富足带来的安全感”,而圣灵的果子之和平,乃是在经历神恩典之后,于心灵深处感受到的安稳。保罗在书信中经常以“愿恩惠、平安归给你们”问候,先提“恩惠”,然后“平安”才降临,这也说明唯有领受了“无条件的救恩”这巨大恩典,不再被罪疚和定罪感所束缚,并在与神和好的关系中得享自由时,人才能获得内心的安息。张大卫牧师屡次强调,当教会群体在恩典之中彼此接纳时,就会出现深沉的和平,人们便在这里真实地经历神国的能力。 和平降临时,我们的心胸就宽阔了。保罗在哥林多后书6章11-13节里劝勉信徒:“你们也要敞开自己的心。”若被律法主义的标准捆绑,就很容易沦为批判和骄傲;然而经历十字架福音之恩典的人,则能心胸开阔。因为救恩不是出于我们的行为,而是全然基于主的功劳;我们得救是因恩典,也在这恩典里成长,因此自然能更包容别人的过失。律法主义者常常带来“憋闷”和“苛责”,而恩典主义者则充满“从容”和“和平”。圣灵的果子在教会群体里表现出来的真实面貌,就是让爱成为根基,从这爱里迸发喜乐,在喜乐中满溢恩典,继而达致和平,于是彼此接纳,彼此建造——这才是教会该有的本色。 然而在加拉太教会里,一些律法主义者潜入其中,动摇了“因信称义”的福音根基。他们宣称“要想得称义,你们必须更加遵守律法”,结果导致教会内部出现分裂和冲突。保罗在加拉太书里坚定宣告:“我们是因恩典得救,不是凭行为,而是因基督的十字架得以称义。”因此,教会里理应充满爱、喜乐和平安,但律法主义却压制了人,且不断挑起分裂。在这种情形下,保罗强烈呼吁:“你们要结出圣灵的果子,不要凭律法,而要以福音的精神而活。”张大卫牧师同样指出,教会之所以会分裂、会有人与人之间冲突,归根结底是因为失落了恩典,却陷入了律法主义的态度。我们从加拉太书获得的最重要教训便是:“当我们在圣灵里结出始于爱的果子,让它一一在生命中彰显时,教会群体才能真实地经历和平。” 圣经一再强调的圣灵三大根基:爱、喜乐、和平,正是这样的次序。拥有爱就会生出喜乐,而喜乐充盈之时,我们就会深刻体会所领受的恩典,并随之在内心得到真正的平安。这正是保罗所说“没有律法禁止”的美好圣灵运行方式。当基督徒的群体里爱越深,由此而来的喜乐与平安就无穷无尽。基督徒理应追求这样的生命样式,让圣灵的果子自然流露出来。但保罗的话并未止步于此,他紧接着列举了“忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制”这几项德目,提醒我们:圣灵的果子也须在具体的生活行动中得到彰显。 小主题2:爱的实践——忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制 如果说爱、喜乐、和平是圣灵果子的根基与土壤,那么接下来的“忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制”则展示了这爱如何在日常生活中具体地结果、发展。爱不只是抽象的概念,唯有在现实中被践行,才能真正成为果子。保罗强调,这些果子是在“靠圣灵而活的人”切实“随从圣灵行事”时自然而然结出的。张大卫牧师也经常强调,教会里不仅要有正确的教义或对真理的理解,更要让真理在生活中落实,才算得上是“圣灵之人”真正的成熟。 首先是“忍耐”(也可译作“恒久忍耐”或“坚忍”)。圣经所言的忍耐,并非单纯消极地默默承受苦难,而是因着爱而能够承担的一种积极态度。若缺乏爱,我们就会轻易放弃,或者容易陷入愤怒和沮丧;但当拥有爱时,我们因对对方怀有怜悯和恩典,而能长久地忍耐。保罗在以弗所书4章2节也说:“凡事谦虚、温柔、忍耐,用爱心互相宽容。”可见忍耐是爱的另一面。正因为神的爱临到我们,即使我们遭遇委屈或苦难,也能坚持“等候主的时刻”。这就是信心的生活,也是真正爱的生活。 当忍耐在我们心中扎根,随之流露的就是“恩慈”。若我们本身没有经历神的慈爱,也就无从向他人施与恩慈。恩慈的核心是“怜悯对方,愿意帮助”。主耶稣的一生,正是恩慈的最佳范例:祂走近罪人、税吏和娼妓、病人和残疾人,以及社会边缘群体,与他们同席,安慰他们的心灵,更在十字架上为全人类担当罪孽,显明了终极的怜悯。因此,基督徒便是要将这所领受的怜悯向世界传递。张大卫牧师提到,当教会不去践行这份恩慈时,世人就会对教会提出质疑和批评。我们宣扬福音之前,应当先以怜悯之心去服事、关怀邻舍。这并非凭我们自己的能力,而是圣灵在我们里面所结的果子,使我们能够这样行。 恩慈若被进一步付诸行动,就成为“良善”。圣经所说的行善并不仅仅是“做好事”而已,而是“行蒙神喜悦的事”。若仅仅凭意志去行善,人往往会失败;唯有圣灵在我们里面工作,才会自然生发善念,并结出善行的果子。雅各书2章26节指出“信心没有行为就是死的”,强调行善的重要性。加拉太书6章9节也说:“我们行善,不可丧志;若不灰心,到了时候就要收成。”无论在教会内还是在世上,良善都是圣灵的果子,能深深触动人心,因为这善是从神而来。张大卫牧师强调教会必须承担社会责任时,正是将此“良善”视为核心准则。基督徒在各自所处的环境中实践善行,就能让神国的统治在现实中得以彰显。 接下来是“信实”(或译作“忠诚”、“忠信”)。一般人谈到“忠诚”,可能会联想到军队或组织中的效忠;而圣经所言的信实,既包含对神的忠心,也涵盖人与人之间委身、负责的态度。对神忠心,意即把自己的一切托付给神国,无论环境如何动摇,都坚定信靠而不退后;对人忠心,则意味着在与人相处中负责任、值得信赖。耶稣在“才干比喻”中,称赞了那位尽心尽力管理主人财物的“又良善又忠心的仆人”,让他同享主人的快乐。信实一方面指向我们与神之间的诚实和恒心;另一方面也指我们在教会或社会中尽责地承担使命。张大卫牧师说,当教会里的人们都以忠诚互相服事,教会就能被坚固;当职分被忠实地履行,世人也会对教会心生敬重。圣灵所结的“信实”虽然超越人的努力,但唯有当我们“与基督同死同活”时,这份忠诚才在我们内里生根发芽。 第七个果子是“温柔”,它象征属灵成熟。就像庄稼越熟越低头一样,属灵生命越成熟,也就越能谦卑,越能为他人着想。温柔的人不会轻易论断别人,而是努力包容、理解。《马太福音》11章29节,耶稣说:“我心里柔和谦卑,你们当负我的轭,向我学习。”这是主亲自向我们表明祂的性情:祂从不炫耀能力、压制他人,反倒与罪人同席,为迫害祂的人祷告求父赦免。这是温柔的最高境界。从人的角度看,要爱敌人似乎毫无可能;但若借着圣灵的带领,通过明白耶稣十字架的爱,我们就能对仇敌也心生怜悯。张大卫牧师说,温柔之人能带来“使灵魂得生的力量”,并非靠强硬的态度,而是靠爱去接纳、包容,最终往往更能成就生命的工作。这种心境并非人间知识或技巧所能模仿,唯有凭圣灵的果子才能获得,是如同宝石般珍贵的品质。 第九个、也是最后一个果子是“节制”(self-control)。这指的是“自我克制”的能力。圣经告诉我们,人性往往倾向罪,并易受肉体私欲的驱使,比如冲动地伤害他人,或陷入嫉妒、愤怒等。但若圣灵内住,我们就能学会自我节制。从饮食习惯到言行举止,乃至性方面的纯洁,节制都是达到真正自由的必备品。因为放纵并非自由,而是另一种形式的奴役;节制之处才有真自由。保罗在哥林多前书6章12节说:“凡事我都可行,但不都有益处;凡事我都可行,但无论哪一件,我总不受它的辖制。”当中就蕴含着节制的原则。张大卫牧师称这种节制为“自发的顺服”,即在圣灵里欢喜顺服神的旨意,从而喜乐地管理自己。 由此可见,始于“爱”的这一系列果子,最终会触及并改变我们的整个人格与生活。加拉太书5章23节说:“这样的事没有律法禁止”,可解读为“这类美善德行,没有任何世俗制度或条文能加以阻挡”。爱、喜乐、和平、忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制,在任何处境、任何时代、任何地方都备受推崇。真正的基督徒生活应该在这些方面体现出来。然而,我们都很软弱,经常失败、跌倒。因此保罗在加拉太书5章25-26节特别提醒:“我们若是靠圣灵得生,就当靠圣灵行事。不要贪图虚名,彼此惹气,互相嫉妒。”也就是说,要“靠圣灵而活,并在实际行动中随从圣灵引导”,否则就会陷入骄傲和虚荣,最终产生嫉妒和纷争。 在这里,我们也有必要回想创世记中人类犯罪的起源。亚当所犯之罪在于骄傲:想要像那无限的神一样高抬自己,由此罪便生出。随后该隐又因嫉妒而杀害了弟弟亚伯:这是面对兄弟所生的嫉妒。从此我们看见,一个是对神的骄傲(垂直维度的罪),另一个是对弟兄的嫉恨(水平维度的罪)。张大卫牧师指出,当教会里滋生嫉妒时,分裂就在所难免。人一旦被骄傲所控制,就会产生“我比你更懂律法”的优越感,开始定罪别人,从而毁坏教会。保罗在加拉太书5章26节嘱咐:“不要彼此惹气,互相嫉妒。”因为属圣灵之人最终会选择“爱”这一条路。 在谈论“爱”时,我们必须记得福音超越律法主义的精髓。耶稣在约翰福音第8章中,处理行淫时被捉拿的妇女时,是如何对待她的?照律法,此妇女确实该被用石头打死;但耶稣说:“你们中间谁是没有罪的,谁就先拿石头打她。”那些自诩谨守律法的人无言可答,最终都离去了。耶稣并没有否认律法,而是指向比律法更高的“爱与饶恕”的层次。接着耶稣对那妇女说:“我也不定你的罪,去吧,从此不要再犯罪了。”换言之,爱就是在可被定罪之处选择赦罪。基督徒既是蒙赦免的人,也当成为赦免他人的人。马太福音18章,耶稣借“欠主人一千万两银子的仆人”的比喻阐明了:若我们已被免去了巨大债务,却不肯宽容那欠我们区区百元之人,那便是大愚若智。因为我们都欠神极大的债,如今被免了,自当饶恕弟兄。 张大卫牧师把这种福音的核心称为“十字架精神”。十字架精神不是定罪对方,而是甘愿替对方背负软弱和过失。耶稣基督为我们这些罪人被钉十字架,担当我们的罪,使我们得以从罪与死的辖制中被释放。同样,我们也应当走基督的道路,不去定罪软弱的弟兄,反而背负他们的重担,一同帮助他们得恢复。这才是圣灵果子所追求的生活方式——爱的确需要实践,并通过忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制在日常中具体展现。如此,教会就能显明福音的大能,在世上成为光与盐,发挥应有的影响力。 2. 彼此分担重担的生活与基督的律——超越骄傲与嫉妒 进入加拉太书第6章,保罗更进一步给出了具体、实践性的教导。“伦理”(ethic)就是“我们该怎样生活”的答案。临近结束书信时,保罗教导加拉太的信徒们,如何在教会群体中成为真正属灵的人。耶稣基督的福音绝非抽象的思想,而是必须落实在真实生活现场的能力。张大卫牧师在讲道时常说:“真理若只停留在头脑里,便无法发挥功效。唯有在现实生活中实践,它才能真正改变人,也更新群体。” 保罗在加拉太书6章1节说:“弟兄们,若有人偶然被过犯所胜,你们属灵的人就当用温柔的心把他挽回过来,又当自己小心,恐怕也被引诱。”这里保罗用“属灵的人”来称呼加拉太的信徒,一方面出于牧养的智慧,想激励并鼓励他们;另一方面也是提醒他们反观自身的灵性状况。实际上,加拉太信徒中有些人深陷律法主义,更倾向于指责别人。保罗劝诫他们:“要用温柔的心去挽回那犯错的人”,换言之,与其论断,不如饶恕,带领他归回。并非给他随意开脱,而是要以十字架的精神看待他的灵魂,使他被医治和复兴。 接着保罗又说:“又当自己小心,恐怕也被引诱。”这意味着,我们自己也并非不受罪的影响,今天这个人犯错,明天可能就换我跌倒。哥林多前书10章12节也同样警戒:“所以,自己以为站得稳的,须要谨慎,免得跌倒。”这是深刻洞察了人性的软弱。我们即使看到别人的罪,也不能因此自傲地说:“我可和他不一样。”因为每个人都随时可能跌入相同的陷阱,因此更应以谦卑和爱心扶持、挽回软弱之人。 在加拉太书6章2节,保罗继续说:“你们各人的重担要互相担当,如此就完全了基督的律法。”这正是福音的奥秘,也体现了耶稣“代赎精神”的核心。律法主义者习惯指责别人的罪,并要用石头打死;然而在约翰福音8章,耶稣对想要用石头打死那行淫妇女的人说:“你们中间谁是没有罪的,谁就可以先拿石头打她。”结果谁也不敢动手,因为人都在罪里。罪人无法定罪罪人,只有耶稣有资格,却并未定罪她,反而饶恕了她。“彼此担当重担”便是这种教会生活的缩影:把别人的软弱、过失视为自己也应当分担的重担,一同背负。保罗称这是“基督的律法”。律法主义者说:“既犯了罪,就该受罚。”但基督的门徒说:“我愿和你一起背负、一起走。”正如耶稣在十字架上背负了全人类的罪与痛苦,我们也理当背起弟兄姊妹的伤痛。这种氛围正是使教会成为教会的力量所在。张大卫牧师指出,当教会发生冲突时,唯有再次回到“彼此担当重担的基督之爱”上,矛盾才会得到化解。教会之所以分裂,往往是因为人人都只顾“自己苦不苦”,责怪“你连这个也做不好”,彼此埋怨,却不愿互相负担。然而福音带领我们走向相反的方向:“让我来帮助你分担;或者你也来帮我承担,我们一起走。”这才是群体生命得以存活、复兴之道。 保罗在6章3节又说:“人若无有,却自以为有,就是自欺了。”意思是:若有人实际上并没有什么,却自视甚高,自以为完美虔诚、律法遵行到位,就是自我欺骗。事实上,我们原本一无是处,只是蒙恩得救的罪人,却常常错误地以为自己已经很“圣洁”,陷入极度危险的境地。保罗继续强调:“各人应当省察自己的行为,这样,他所夸的就专在自己,不在别人了”(6:4)。与其把焦点放在别人身上加以论断,不如先省察自己与神的关系,以及自己在神面前的光景。 接着6章5节保罗说:“因为各人必担当自己的担子。”一方面我们要互相分担重担,但另一方面,终有一天,我们仍要在神面前为自己的人生交账。那时,“我比别人更好”之类的话毫无意义。神只会问:“你是谁?你是否在我与你的关系里忠心度日?”这是新约圣经一贯的教导,也是一切敬虔操练的核心。 加拉太书6章1-5节的教训不仅适用于个人伦理,也适用于整个教会群体。唯有当大家彼此分担重担、以温柔心彼此挽回,并且自身保持谦卑、警醒,教会才能健康成长。圣灵的果子最美好的彰显,往往是在罪人悔改归回时;教会因接纳与欢喜而成为神恩典的场所。保罗在5章26节已提到:“不要贪图虚名,彼此惹气,互相嫉妒”,并在第6章延续这一思路,希望建立一个以福音为中心的群体,让信徒时刻谨防骄傲与嫉妒这两大毒瘤。 正如在创世记,亚当因骄傲(对神垂直层面的罪)犯罪开端,又有该隐因嫉妒(对兄弟水平层面的罪)而犯杀人罪,从此罪的历史展开。同理,在教会中,若让骄傲或嫉妒进来,必导致破坏。解决之道是什么?答案可在加拉太书5章里保罗提出的圣灵九果中找到。若让爱、喜乐、和平在群体里奠定根基,再加上忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制,教会就能彼此成全、彼此建造。有人犯罪时,不是赶尽杀绝,而是以温柔挽回;若我自己软弱,弟兄也能将我扶起。这就是“靠圣灵得生、也靠圣灵而行”的教会。 张大卫牧师常说:“福音的核心,就是在教会群体中彼此造就、彼此活命的爱的实践。”这与十字架的道路相吻合,也是初代教会所展现出的生命力。使徒行传初期,教会里的信徒“凡物公用”,有人变卖家产给有需要者,同心生活,一旦人性自私与贪念渗入,就会产生问题;但使徒们仍然努力用真道和祷告来牧养教会,让接纳与相爱的秩序得以维系。这正是教会不断扩张和复兴的动力。 总的来说,加拉太书5章22节一直到第6章所贯穿的保罗教导,给我们指明了三个方向: 当今教会常常遭受世人的非议,其中一个原因,就是有时我们掉入“律法主义式的定罪”,彼此伤害,甚至造成分裂。若一间教会里圣灵的果子丰盛,那么当面对“我们中间的罪”时,自然而然便会寻求耶稣的道路——背负与挽回,而不是定罪与赶逐。耶稣的道路,就是为自己的罪,也为别人的罪谦卑祈求,彼此一同走向更新。“你们各人的重担要互相担当,如此就完全了基督的律法”(加拉太书6章2节),这句话正是面向所有立志行走十字架之道的人所给出的切实命令,也是一贯为张大卫牧师所反复强调的真理。 我们并不完全,随时需要圣灵的帮助,也随时需要记得十字架上的赦免。当我们牢牢记住这一点,就不再以定罪的口吻对待弟兄,反倒会说:“弟兄(姐妹),我愿分担你的重担,你也能帮我分担吗?”这样,教会就不再是一个相互争斗的场所,而会成为一个医治与复和、充满恩典与平安的地方。只有真正领会加拉太书的这一信息,我们才能经历福音的大能,让世人看见那无法抵挡的基督之爱。而这,正是保罗写给加拉太教会以及历世历代所有信徒的宝贵教导。 最终,唯有当圣灵的果子在教会这个群体的生活中得以实践时,才能真正绽放它的光芒。爱不是抽象的概念,而是实实在在的行动;喜乐和平安从爱而涌现;忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制则在教会共同生活的核心情境里具体地盛开。当我们舍弃骄傲与嫉妒,真心走上“十字架的道路”,教会内部的伤痕与冲突就有机会透过“彼此担当重担”的方式得以解决。一旦用鼓励与复和的语言替代了指责,圣灵就会触动每个人的心灵,最终坚固基督的身体——也就是教会。 张大卫牧师在其对加拉太书的释经与讲道中反复强调:若我们真能紧握福音,成为圣灵更新的人,那么律法主义带来的分裂与仇恨就将失去立足之地。取而代之的,是基督徒彼此的宣告:“我来帮你背负重担,也请你帮我一起担负。”那时,我们就在此刻看见神国的降临。保罗在加拉太书中宣扬的“圣灵的果子”和“基督的律法”并非只是一种个人灵修的记号,而是能医治教会并改变世界的力量。这也正是神对加拉太地区信徒,以及当今所有信徒所怀抱的期望——活出真正的福音生活。 愿我们都能在圣灵里结出这一切美好的果子,在彼此背负重担的道路上,切实见证十字架的真理,使教会愈加像主基督的身体,成为恩典与平安的所在。这正是保罗要向加拉太教会传达的信息,也是对我们今天的呼唤。愿主带领我们,与张大卫牧师所持守、所传讲的信息同心,走在这条福音之路上,叫神的名得荣耀。阿们。

聖霊の実と福音的な生き方 – 張ダビデ牧師

1. 聖霊の実の本質 – 愛、喜び、平安 ガラテヤ書5章22-23節には、私たちがよく知る聖霊の九つの実が列挙されています。使徒パウロは「愛、喜び(希:희락)、平安(希:화평)、寛容(오래 참음)、親切(자비)、善意(양선)、誠実(충성)、柔和(온유)、自制(절제)」と明示し、「このようなものを禁じる律法はありません」と宣言します。これはキリスト者が聖霊のうちに結ぶべき実であり、相互に緊密に結びついた徳目でもあります。パウロはその中でもまず「愛」を挙げます。張ダビデ牧師も多くの説教で、この「愛」こそが残りの八つの実を統合し導く中心的な徳目であると強調してきました。聖書全体を貫く救いの歴史の中で、聖霊の実は結局「神の愛が私たちのうちに具体化された生き方」であることをはっきりと示します。私たちはこの愛から出発し、喜び(희락)と平安(화평)へと続く恵みの生を理解する必要があります。 パウロがガラテヤ書5章22節で最初に示した聖霊の実である「愛」は、世の中でもよく口にされる“愛”と一見似ているように思えますが、実際にはまったく異なる次元のものだと聖書を通してわかります。世にあふれる“愛”の言葉には、人間的な欲望や感情に流される面が多分にあります。しかし聖書が語る愛とは、神がキリストを通して示された“アガペの愛”です。これは無条件で与えられる愛であり、罪人である私たちのために、ご自身を犠牲にされたイエス・キリストの十字架の出来事に最も鮮明に現れます。ローマ書5章は「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はご自身の愛を確証された」と語ります。張ダビデ牧師はこの御言葉をしばしば引用し、人間には計り知れない神の愛こそが福音の中心であると繰り返し説いてきました。私たちが聖霊のうちに結ぶべき最初の実が「愛」である理由は、まさにここにあります。 では、なぜ愛が聖霊の実の中で最も優れており、他のすべての実を統合すると言えるのでしょうか。第一コリント13章は、愛の重要性を最も美しく明快に説明しています。パウロは「愛がなければ、私は無に等しい」と言います。たとえ賜物や知識が多くても、能力が優れていても、もし愛がなければすべては虚しいのだ、と。愛はいつまでも絶えず、愛が完全に臨むとき、私たちは神を完全に知るようになる。ここで「知る(ヤーダー)」というヘブライ語が「愛する」という意味と結びついているという洞察はとても深いものがあります。旧約聖書で「ある人が自分の妻を知った」という表現は、単なる知識ではなく、親密な愛を指し示しています。イエス様がペテロに「あなたは私を愛するか?」と尋ねられ、ペテロが「主よ、あなたはご存じです」と答えた場面も同様です。すなわち「知る」ということは「愛すること」と結びつく核心的な概念なのです。主が私たちを「知っておられる」ということは、すなわち私たちを「愛しておられる」ということであり、その愛のゆえに、私たちも主を知り、愛する者となるのです。 張ダビデ牧師はこの文脈の中で、キリスト者の愛とは、人間が先に始めた意志ではなく、まず神が私たちを愛してくださり、その愛のうちで私たちが愛を学んでいくことだと説きます。すなわち「神がまず私たちを知り、私たちを愛してくださった」という告白が出発点となるとき、聖霊の実としての真の愛が私たちのうちに根を下ろすのです。このような愛があるからこそ、続くパウロの示す喜びと平安、そしてその他のすべての徳目が正しく花開きます。愛は決して孤立しません。愛のうちには喜びがあふれ、その喜びが周囲へと伝わって平安へとつながっていきます。 二番目の実である「喜び(희락)」は、愛と表裏一体です。愛される者は喜びを感じますし、愛を施す者もまた喜びに満たされます。人間は神のかたちに造られた存在なので、真実の愛のうちにいるときこそ最も深い喜びを味わうのです。それは世俗的な快楽ではなく、霊的な真の喜びです。イエス様がヨハネの福音書15章11節で「私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるようにするためである」と語られたように、神の愛のうちにとどまる者が味わう喜びは、単なる感情的な楽しみを超えています。それは「主の喜び」が私たちのうちに満ちる状態です。愛するとき、喜びはあふれ出し、その喜びはさらに大きな愛を生み出す。張ダビデ牧師は、教会が真に聖霊のうちで一つとなるとき、共同体の中に自然と喜びがわき上がり、それは世の中では味わえない霊的な生き生きとした力として現れると説明します。その喜びを通して、人々は教会の中に生ける主を目撃するのです。 三番目の実である「平安(화평)」は、一般的に言う「平和」のことです。しかし、イエス様がヨハネの福音書14章27節で「私が与える平和は、この世が与えるものとは違う」と言われたように、この平安は世の中の条件や環境に左右されるものではありません。世のいう平和は、せいぜい「戦争がない状態」程度に理解されたり、物質的に不足がないときに感じる安心感のように捉えられがちですが、聖霊の実としての平安は「神の恵みを体験することから生まれる心の安らぎ」です。パウロが手紙の冒頭でしばしば「恵みと平安があなたがたの上にあるように」と挨拶するのは、恵みが先にあり、その恵みを受け取るときに心に平安が与えられるという順序があるからです。これは「無条件の救い」という驚くべき恵みによって、もはや罪責感や罪の裁きから縛られることなく、神との関係において自由を得た者が享受する内面的な休息です。張ダビデ牧師も多くの説教で、教会共同体が恵みの中で互いに受け入れ合うとき、その中に深い平安が根づき、人々は神の国の力を実際に体験すると強調しています。 平安が訪れるとき、心には余裕が生まれます。パウロが第二コリント6章11-13節で「あなたがたも心を広くしなさい」と勧める場面は、その代表的な例です。律法的なものさしに囚われ、常に批判や高慢に陥っていると、人の心は狭くなりがちです。しかし十字架の福音の恵みを経験した者は、心を広く持つことができます。なぜなら、救いは私たちの行いではなく、完全に主の功績によるものだからです。恵みによって救われ、恵みによって成長したのなら、自然と他者の過ちも受け入れられるようになる。律法主義者たちには「息苦しさ」や「批判」があふれますが、恵み主義者たちには「余裕」と「平安」が満ちます。これこそ聖霊の実が教会共同体の中で現れるべき真の姿です。愛が土台となり、その愛から喜びが湧き上がり、その喜びのうちに恵みが満ちて平安へと至り、共同体が互いの過ちを包み合い、立て上げていく場所こそ、本来あるべき教会の姿なのです。 ガラテヤの教会の中には律法主義者たちが入り込み、「信仰によって救われる」という福音の基礎を揺るがしていました。彼らは「もっと律法を守らなければ、義とされない」などという新たな規範を押しつけ、その結果、教会の中には分裂と葛藤が生じていたのです。パウロはガラテヤ書で明確に言います。「私たちは恵みによって救われたのであり、行いではなく、キリストの十字架によって義とされたのだ」。だからこそ、教会には愛と喜び、そして平安があふれるべきなのに、律法主義は人々を抑圧し、繰り返し分裂へと追い込む。そのような状況に対して、パウロは「聖霊の実を結びなさい。律法ではなく福音の精神によって生きなさい」と強く勧めます。張ダビデ牧師もまた、教会の分裂や人間関係の対立は、結局は恵みを失い、律法的な態度を取るときに起こるのだと指摘します。私たちがガラテヤ書を通して学ぶべき最も重要な教訓は、「聖霊のうちにあって愛から始まる実が順に私たちの人生に結ばれていくとき、教会共同体は真の平安を経験するようになる」ということです。 このように、聖霊の実の中で最も根本をなす愛・喜び・平安について、聖書は絶えず強調しています。愛があると喜びが生まれ、喜びが満ちあふれると、自分が受けた恵みの大きさを悟り、心に平安が訪れる。これが、パウロが「このようなものを禁じる律法はありません」と断言した聖霊の美しい働きの仕組みです。結局のところ、キリスト者の共同体の中で愛が深まれば深まるほど、そこから派生する喜びと平安は尽きることがありません。キリスト者が目指すべき生き方は、こうした聖霊の実が自然ににじみ出るものなのです。しかし、そこで終わらず、パウロはさらに「寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という一連の徳目を挙げ、聖霊の実が私たちの日々の行動様式として具体的に現れるべきだと促します。 小見出し2:愛の実践 – 寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制 愛・喜び・平安が聖霊の実の基本的な土台ならば、その愛がどのように具体的な生活の中で実を結び、発展していくかを示す徳目が「寛容(오래 참음)、親切(자비)、善意(양선)、誠実(충성)、柔和(온유)、自制(절제)」です。愛は抽象的概念ではなく、実際の生活に適用され、実践されてこそ初めて実を結ぶのです。パウロはこれらを「聖霊によって生きる者が、聖霊によって歩むときに自然に現れる実」と強調します。張ダビデ牧師も、この部分をしばしば説教で取り上げ、「教会の中には正しい教理や聖書理解だけでなく、その言葉が生活の中で実現されてこそ『聖霊の人』として成熟を遂げるのだ」と語ります。 最初に挙げられるのは「寛容(長く耐えること)」です。これは「忍耐」や「辛抱すること」とも訳されます。聖書のいう寛容は、単に苦痛を黙々と耐える受け身の態度ではなく、愛のゆえに耐える能動的な姿勢を意味します。愛がなければすぐにあきらめ、すぐに怒りや落胆に傾きがちですが、愛があるならば相手に対する憐れみの心や恵みがあるので、長く忍耐することができます。パウロはエペソ書4章2節で「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容をもって愛のうちに互いに耐え忍びなさい」と言っています。結局、寛容は愛のもう一つの顔なのです。神の愛が私たちに臨んだからこそ、私たちがときに理不尽な目に遭ったり苦難に直面しても、「主の時を待ち望む」という姿勢を貫けるようになる。これこそが信仰の生であり、愛の生です。 寛容が私たちのうちに根づくと、次に「親切(자비)」があふれ出します。親切・慈悲は、自分が持っていないものを分かち合うことはできないので、やはり神の愛を経験した者だけが流すことのできるものです。親切は本質的に、他者をかわいそうに思い、その人を助けようとする心を指します。イエス様はその生涯を通して、この親切・慈悲が何であるかを示されました。罪人や取税人・娼婦、病人や障がい者、社会から疎外された人々に近づき、ともに食事をし、彼らの心を慰められました。そして、その先には十字架によって全人類の罪を背負う究極の親切・慈悲を示されました。したがって、キリスト者とは「受けた慈悲を世に流し出す人」です。張ダビデ牧師は、教会がこの親切・慈悲を実践しないとき、世は教会を批判し始めると指摘します。私たちが口先で福音を伝える前に、親切な態度で隣人に仕える姿がまず現れなければなりません。これは私たちの能力ではなく、聖霊のうちに結ばれる実であるがゆえに可能になるのです。 親切が積極的に表されると、それは「善意(양선)」へとつながります。「善意」とは善い行いをすることです。聖書で「善を行う」とは単なる「いいこと」「良い行い」という程度のものではなく、「神が喜ばれること」を指します。私たちが意志の力だけで善を成そうとしても、失敗に終わることが多いでしょう。しかし聖霊が私たちのうちに働かれるとき、自然に善い心が与えられ、善い行動が実を結ぶようになります。ヤコブ書2章26節は「行いのない信仰は死んだも同然」と述べ、善い行いの重要性を強調します。さらにガラテヤ書6章9節でもパウロは「私たちは善を行うのに飽きてはなりません。時が来れば刈り取るようになるからです」と述べます。教会共同体の中でも、世の中でも、「善意」は聖霊の実として人々の心に大きな響きを与えます。それは神から発している善だからです。張ダビデ牧師は、教会が社会的責任を果たすべきだと語る際、この「善意」を重要な基準としています。キリスト者が生活の場で善を実践することで、神の国の統治が現実の中に現れ始めるのだ、というわけです。 次の実は「誠実(충성)」です。人々は「誠実」という言葉から、軍隊的な視点や組織への忠誠を連想するかもしれませんが、聖書が語る誠実は「神に対する信仰の忠実さ」、そして「人間同士の信頼関係の中で責任をもって献身する姿勢」の両面を含みます。神に誠実であるとは、自分の持っているすべてを神に委ね、神の国のために献身し、揺るぎない信頼の中にとどまることを意味します。同時に、人間同士の関係においても、信頼に値する人となることを意味します。イエス様が例え話で語られたタラントの物語を見ると、善良で忠実な僕は主人から預かったものをよく管理し、「主人の喜びにあずかりなさい」という称賛の言葉を受けました。誠実は、神に対しては誠実さ、共同体や他者に対しては責任感をも示します。張ダビデ牧師は、教会の中で人々が互いに誠実な姿勢で仕え合うとき、教会はしっかりと立ち、各役割をしっかり担うときに世は教会を見て敬意を払うようになると言います。聖霊の実としての誠実は、人間の努力だけでは限界がありますが、聖霊のうちにあって「私が死にキリストが生きる」という生き方を通して初めて可能になるのです。 七番目に挙げられる「柔和(온유)」は成熟の象徴です。農耕の比喩でいえば、穀物が実るほど穂が垂れ下がるように、霊的にも成熟した人は自然にへりくだり、他者を思いやる心を持つようになります。柔和な人は、他者をすぐに断罪するのではなく、包み込み理解しようとします。イエス様が「私は心が柔和でへりくだっている。私から学びなさい」(マタイ11章29節)と言われた箇所は、イエス様ご自身の品性がいかなるものであるかを直接示す決定的な例です。イエス様はご自分の力をひけらかしたり、人々を圧迫することはありませんでした。むしろ罪人たちと食卓をともにし、ご自分を迫害する者のために「彼らをお赦しください」と祈られました。これが柔和の極みです。人間的な次元では、敵を愛するなど到底不可能に見えますが、聖霊の導きによってイエス様の十字架の愛を悟った者は、敵さえも憐れみ、受け入れる心を学んでいきます。張ダビデ牧師は、柔和な人には魂を生かす力があると言います。強圧的な態度ではなく、愛で包む心が結局はより大きな命の働きを生み出すのだ、と。そうした心は、世の知識や技術では決して真似できない、ただ聖霊の実によってのみ得られる宝のような資質です。 最後の九番目の実は「自制(절제)」です。自制は“self-control”とも訳され、自分自身をうまくコントロールする力を意味します。聖書は、人間の自我が罪性に傾きやすいことを、さまざまな箇所で教えています。私たちは本能的に肉の欲望に流されやすく、他者を害する思いや、妬み、怒りなどに簡単に巻き込まれます。しかし聖霊が内住しておられる人は、自らを制御する術を学びます。食べたり飲んだりする生活習慣から、言葉や行動、さらには性の領域に至るまで、自制は真の自由のために不可欠な徳目です。なぜなら放縦は自由ではなく、ある種の別の形の奴隷状態だからです。自制があるところにこそ真の自由があります。パウロが「すべてのことが許されているが、すべてが益となるわけではない。すべてが許されているが、私は何者にも支配されはしない」(第一コリント6章12節)と言うとき、まさにこの自制の原理が内在しています。張ダビデ牧師は、自制を「自発的な従順」と表現し、聖霊の中で喜んで従いながら生きる人は、喜びをもって自分をうまくコントロールできるのだと語ります。 結局、愛から始まるこれら一連の実は、私たちの人格と生活全般を変化させていきます。ガラテヤ書5章23節は「このようなものを禁じる律法はありません」と言いますが、これは「世のいかなる制度や法も、これらの徳行を妨げることはできない」という意味に理解できます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制は、どんな状況、どんな時代、どんな場所でも尊重される価値です。真のキリスト者の生き方とは、まさにこうした姿が顕れることなのです。しかし私たちは弱く、しばしば失敗し、つまずきます。ガラテヤ書5章25-26節でパウロは「もし私たちが聖霊によって生きるのなら、聖霊によって歩みましょう。虚栄に走り、互いに挑発しあったり、妬みあったりしてはいけません」と勧めます。これは「聖霊によって生きなさい。そして実際の生活においても聖霊の導きに従って歩みなさい」という招きです。そうしないと高慢や虚栄に陥り、結局は嫉妬や争いに巻き込まれてしまうのです。 ここで私たちは、創世記に描かれる人間の罪の起源を改めて振り返る必要があります。アダムの犯した罪は高慢でした。無限なる神のようになろうとした人間の高ぶろうとする心から罪が始まり、続いてカインは弟アベルへの嫉妬によって殺人罪を犯しました。アダムの罪は神に対する高慢(垂直的な罪)であり、カインの罪は兄弟に対する嫉妬(水平的な罪)だったのです。張ダビデ牧師は、教会の中で嫉妬が起こると、必ず分裂が生まれると指摘します。人間的な高慢が入り込むと「自分はもっと律法を守っている」「自分は優れている」というように優越感を持ち、そうでない人を裁くようになる。それが結局共同体を壊していくのです。パウロはガラテヤ書5章26節で「互いに挑発しあったり、妬みあったりしてはいけません」と強調し、教会の分裂を防ごうとしました。なぜなら聖霊の人は最終的に「愛」を選択するからです。 私たちは愛を語るとき、律法主義を超える福音の核心を忘れてはなりません。イエス様が姦淫の現場で捕らえられた女性にどのように対処されたかをヨハネの福音書8章で確認できます。律法どおりなら、彼女を石打ちにするのが正しい裁きでした。しかしイエス様は「罪のない者がまず石を投げよ」と宣言され、律法主義者たちの隠れた罪を暴き、最終的にはその女性を赦して「これからは罪を犯してはならない」とおっしゃいました。これは律法を無視するのではなく、律法よりもはるかに高次元の愛と赦しを示されたのです。このように愛は断罪ではなく、贖いを選びます。キリスト者は赦された者であり、同時に赦す者となるべきです。マタイの福音書18章でイエス様は、莫大な借金(一万タラント)を免除してもらったにもかかわらず、自分に百デナリオン借りている仲間を赦せなかった僕のたとえ話をされ、赦さない者の愚かさを指摘されました。私たちは皆、神に対して途方もない借金を帳消しにしてもらった存在なのですから、当然のように兄弟を赦さなければなりません。 張ダビデ牧師は、こうした福音の精神を「十字架の精神」と呼びます。十字架の精神とは、他人を断罪するよりも、その過ちさえも背負って包み込もうとする態度です。イエス様は罪人である私たちの代わりに十字架にかかられ、私たちの罪の代価を支払って、罪と死から私たちを解放してくださいました。であれば、私たちもキリストの道をたどり、兄弟の弱さを裁くのではなく、むしろその重荷を担い、ともに回復を目指すべきなのです。これこそ聖霊の実が求める生き方です。愛は実践されてこそ意味があり、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という形で私たちの日常に具体化されます。そうした過程を通して、教会は福音の力を示し、世の光と塩としての役割を果たすことができるのです。 2. 互いの重荷を負う生き方とキリストの律法 – 高慢と嫉妬を乗り越えて ガラテヤ書6章に進むと、使徒パウロはより実践的・倫理的な教えを展開していきます。エシックス(ethic)とは「どのように生きるべきか?」に対する答えです。パウロはガラテヤ書を締めくくるにあたり、共同体の中で聖霊の人として具体的にどう歩むべきかを示します。イエス・キリストの福音は決して観念的な思想ではなく、生活の現場で力を発揮すべきものなのです。張ダビデ牧師はこの箇所を説教するたびに、「真理は頭の中だけにとどまらない。現実の生活で具現化されてこそ、人を変え、共同体を健全にしていく」と語ります。 パウロはガラテヤ書6章1節で「兄弟たちよ、もし誰かが過ちに陥っていることが明らかになったら、霊的なあなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。そして自分自身を顧みなさい。あなた自身も誘惑に陥るかもしれないからです」と勧めます。ここでパウロが「霊的なあなたがた」という表現を使うのは、ガラテヤの信徒を励ます牧会的な配慮であると同時に、彼らの霊的状態を顧みさせる意図もあります。実際、彼らの中には律法主義の罠に陥り、他人を裁くことばかりに熱心な者たちがいました。パウロは彼らに対して、むしろ「柔和な心で過ちに陥っている人を正す」ようにと言います。これは極端に言えば「断罪するのではなく、赦しと回復へ導きなさい」という呼びかけです。無条件に免罪符を与えるという意味ではなく、十字架の精神でその魂を顧み、生かしてあげるようにということです。 さらにパウロは「自分自身を顧みて、あなた自身も誘惑に陥らないように恐れなさい」と続けます。すなわち私たちも罪から自由な存在ではなく、今日はあの人が罪に陥ったとしても、明日は自分が倒れるかもしれないという警戒心を持つべきだ、という意味です。第一コリント10章12節でも「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とあります。これは人間の弱さを深く洞察している言葉です。たとえ他人の罪を目にしたとしても、それをもって「自分はあの人とは違う」と得意になることはできません。誰しも潜在的に罪へとつまずく可能性があるからです。むしろ謙遜に互いを顧み、助け合い、柔和に正し合う必要があります。 ガラテヤ書6章2節には「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてこそキリストの律法を全うするのです」と記されています。これこそまさに福音の神秘であり、イエス様の生き方に示される「贖いの精神」の根幹です。律法主義者たちは他人の罪を指摘して石を投げようとします。しかしイエス様はヨハネの福音書8章で姦淫の女を石打ちにしようとする群衆に対し、「罪のない者が最初に石を投げよ」と語り、結局は誰も石を投げられなくしました。その理由は、人間であれば誰しも罪を持っているからです。つまり罪人は罪人を断罪できません。イエス様は最後にその女に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない」と言い、真実な赦しを示そうとされました。ここに私たちは、断罪から贖いへと移行されるイエス様の姿を見ます。 「互いの重荷を負い合いなさい」という言葉は、共同体の中で他人の弱さや過ちを自分のことのように担い合う態度を指しています。これが「キリストの律法」なのだとパウロは呼んでいます。律法主義者たちは「罪を犯したのだから罰を受けるべきだ」という対応をしますが、キリストにある人々は「私が代わりに担おう。共に歩もう」と言います。イエス様が十字架で全人類の罪と苦しみを負われたように、私たちも誰かの傷や重荷を共に担おうと努める。それが教会を教会らしくする力です。張ダビデ牧師は、教会の中で争いが生じるたびに「互いの重荷を負い合うキリストの愛が回復するとき、その問題は解決に向かう」と何度も説教で語ってきました。結局、教会が分裂する最大の要因は「自分の重荷ばかりが重い」と嘆き、「あなたはそれすらできないのか」と他人を責め合い、互いに包み込まないことにあります。しかし福音の世界はそれとはまったく逆の方向に動きます。「私があなたの重荷を担おう。あるいは私の重荷も担ってほしい。一緒に進んでいこう」。これが共同体が生き生きとする道です。 パウロは6章3節で「何でもない者が、自分は何かであると思うなら、それは自分を欺いているのです」と言います。自分自身がまったく大したものでないのに「自分はすでに成し遂げた。律法をよく守っているし、すべての条件を満たした完全なクリスチャンだ」と思い上がるなら、それこそ自己欺瞞だというのです。実際私たちは何者でもなく、ただ恵みによって救われた罪人にすぎませんが、ときに聖なるフリをして誇りに陥ります。しかしそうした態度こそが最も危険なのです。パウロはさらに「それぞれ自分の行いを確かめなさい。そうすれば自分の誇りは自分だけのものとなり、他人には依存しないでしょう」(6:4)と強調します。これは他人を裁くことに忙しくなるのではなく、まず自分自身の霊魂を吟味し、信仰を点検しなさいという意味です。 さらに続く6章5節では「人はそれぞれ自分の担うべき重荷を負うことになる」と言います。一方で互いの重荷を担い合うことを勧めつつも、最終的には自分が負うべき人生の領域もある。結局私たちは神の前で自分の人生を決算し、最終的には主の裁きの座に立つことになる。そのとき「私は他の人より優れていた」などという言い訳は意味を持ちません。「あなたは何者であり、私との関係の中でどう生きたのか?」という根本的な問いに答えねばならないのです。これが新約聖書全体が一貫して教えるメッセージであり、キリスト者の敬虔生活の骨格となるものです。 ガラテヤ書6章1-5節のこの教えは単なる個人倫理にとどまらず、教会共同体全体に適用されます。互いの重荷を担い合い、柔和に正し合い、謙遜に自分の弱さを省みる姿勢が広がるとき、教会は健やかに成長します。聖霊の実が最も美しく現れるのは、罪人が悔い改めて戻ってくる場面を見るときでしょう。その人を迎え、ともに喜ぶのが教会です。パウロはすでにガラテヤ書5章26節で「虚栄に走って互いに刺激し合ったり、妬み合ったりしないように」と言いましたが、6章でもその続きとして、福音の共同体が取るべき姿勢を説いています。結局、高慢や虚栄、嫉妬がいかに有害かを指摘し、その解決策として「互いの重荷を担う共同体」を提示しているのです。 創世記でアダムの高慢、カインの嫉妬によって人類の罪の歴史が本格的に広がっていったように、教会の中にも高慢と嫉妬が入り込めば、たちまち分裂と破壊がもたらされます。では、その解決策は何でしょうか。ガラテヤ書5章が語る聖霊の実に答えが見いだせます。愛と喜び、平安が共同体の基盤をなし、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が加わるとき、互いを包み込み、立て上げる共同体となるのです。誰かが罪に陥るとき、彼を排除したり断罪するのではなく、柔和な心で正し、もし自分が倒れたら兄弟たちが自分を起こしてくれる。そのような姿こそ「聖霊によって生きる者が、聖霊によって歩む」教会の姿です。 張ダビデ牧師は、これを「福音の核心は、教会共同体の中で互いに生かし合う愛の実践にある」と繰り返し語ります。十字架の道がそうであったように、初代教会もまたその姿を示しました。使徒の働きの初期に見られる教会は、互いに持ち物を共有し、財産を売って必要のある者に分け与え、共に生活を営んでいましたが、そこに人間的な利己心や欲が入り込むと、すぐに問題が起きました。しかし、そのようなときも使徒たちは御言葉と祈りによって教会を顧み、互いに受け入れ愛する秩序を築くために努力しました。それが教会が引き続き拡張し、成長していった原動力だったのです。 結論として、ガラテヤ書5章22節から6章にかけて続くパウロの教えは、私たちに明確な方向性を示しています。第一に、聖霊の実は「愛」から始まり、「自制」に至るまでの美しい内的・外的な変化のプロセスであること。第二に、愛と喜び、平安を味わいつつ、高慢や嫉妬によって再び奴隷のくびきを負わないようにと強く戒めること。第三に、誰かが罪を犯したり弱さに陥ったとき、律法主義的な断罪ではなく、福音の精神で柔和に戒め合い、互いの重荷を負う共同体を築けと促すこと。これが福音の力であり、キリストの律法を成就する道なのです。 今日、教会が世間から批判の目を向けられる理由の一つは、しばしば「律法主義的な断罪」に陥り、互いに傷つけ合い、分裂する姿を露呈してしまうことにあります。しかし、聖霊の実が豊かに実る教会であれば、「私たちの中に罪があるとき、どうやって癒しと回復をもたらすのか?」という問題に対して、イエス様の道に倣った解決を自然に見いだすようになります。イエス様の道とは、自分の罪だけでなく、他者の罪や痛みさえも共に背負い、祈り、共に回復を目指していく道です。「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うするのです」(ガラテヤ6章2節)という言葉は、まさに十字架の精神を志向する私たち全員に与えられた実践的な命令なのです。これは張ダビデ牧師が常に強調してきたポイントでもあります。 私たちは決して完全ではありません。私たちには日々、聖霊の助けと、十字架で注がれた赦しが必要です。この事実を忘れないとき、私たちは互いを断罪するのではなく「兄弟よ、姉妹よ、私があなたの重荷を共に担おう」と応えることができます。すると教会は争う場所ではなく、回復と癒しがある場所、恵みと平安があふれる場所となるのです。ガラテヤ書が投げかけるこのメッセージをしっかりと受け止めるとき、私たちは本当に福音の力を体験し、世が到底まねできない愛を実践する教会へと変えられていきます。これこそ、パウロがガラテヤの信徒たちのみならず、あらゆる時代の聖徒たちに残した尊い教えなのです。 最終的に、聖霊の実は「教会」という共同体の中で生き方として具体的に現れるとき、初めて輝きを放ちます。愛は一つの抽象概念ではなく、具体的な行為へとつながり、喜びと平安はその愛から湧き出ます。そして寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制は、そうした共同体的な生のただ中で具体的に花開きます。私たちが高慢や嫉妬を捨て、「十字架の道」を真心から歩むとき、教会内の傷や対立も「互いの重荷を負い合う」方法で解決の糸口が見えてきます。断罪の言葉ではなく、励ましと回復の言葉が交わされ始めるとき、聖霊の働きは一人ひとりの心に触れ、最終的にはキリストの体である教会をしっかりと建て上げていきます。 張ダビデ牧師がガラテヤ書の講解で繰り返し強調するように、私たちが真に福音を握り、聖霊の人として生まれ変わるならば、律法主義がもたらす分裂や憎しみは居場所を失います。その代わりに「あなたの重荷を担おう。あなたも私の重荷を共に担ってほしい」というキリスト者の告白が響き渡るとき、そこが神の国の実現の現場となるのです。このようにパウロがガラテヤ書で宣言する「聖霊の実」と「キリストの律法」は、単に個人的な信仰心の印ではなく、教会全体と世の中を癒し、変革していく力として働きます。これこそ神がガラテヤ地方の信徒たち、そして現代の私たちに期待しておられる福音の生き方なのです。 www.davidjang.org

The Fruit of the Holy Spirit – Pastor David Jang

In Galatians 5:22-23, the Apostle Paul lists the nine fruits of the Holy Spirit that we know so well: love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness, and self-control. Paul then declares, “Against such things there is no law.” These are the fruits that Christians ought to bear in the Holy Spirit, closely interlinked virtues. … Read more

El fruto del Espíritu y la vida conforme al Evangelio – Pastor David Jang

1. La esencia del fruto del Espíritu – Amor, Gozo, Paz En Gálatas 5:22-23 encontramos la lista de los nueve frutos del Espíritu que tan bien conocemos. El apóstol Pablo menciona amor, gozo, paz, paciencia, benignidad, bondad, fidelidad, mansedumbre y dominio propio, declarando además: “Contra tales cosas no hay ley”. Estos son los frutos que … Read more