福音と神の愛 – 張ダビデ牧師


福音の核心と神の愛

張ダビデ牧師が説教や講演で繰り返し強調する核心的テーマは、まさに「福音」です。彼は福音を、神の御子イエス・キリストがこの地に来られ、人間のあらゆる罪や苦しみを背負って死なれ、さらに復活されることによって、人類に新しいいのちの道を開いてくださった救いの出来事全体と理解しています。彼にとって福音は、単なる宗教的教義ではなく、人類の歴史や宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的事件なのです。

福音を定義するにあたり、ヨハネの福音書3章16節はいつも重要な出発点として提示されます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された…」という御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示しています。張ダビデ牧師はこの箇所を引用し、私たちが罪のゆえに永遠に断絶されていた存在であるにもかかわらず、神が全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった点を深く黙想すべきだと力説します。私たちが福音を喜び、胸をときめかせ、同時に福音の前で敬虔な畏れとへりくだりを持つ理由は、まさしくこの神の愛の大きさによるのだ、と。

彼はしばしばローマ書5章8節を引用します。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は御自身の愛を確証された」という御言葉は、人間に何らかの資格があったから神が愛を施されたのではない、ということを意味します。むしろ人間は罪の下にあり、自分の力では決して救いに至れない状態に陥っていたにもかかわらず、神は何の条件もなくイエス・キリストを遣わされたのです。ここから張ダビデ牧師は、福音を道徳的模範や宗教儀式に限定せず、徹底して恵みの出来事として認識すべきだと説きます。つまり、福音とは人間の善行や正しさによるのではなく、「神の賜物」として与えられたものである以上、そこに人間的な誇りが入り込む余地など皆無だというのです。

張ダビデ牧師は福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に現れる現場こそが十字架だと強調します。愛は口先だけで語られると空虚になりかねませんが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通じて「歴史的事実」となりました。イエスがご自分を完全に捨て去り、人間のすべての罪を担い、贖いのいけにえとなられたという出来事は、他のいかなる形の愛とも比較できない、絶対的に「比類なき」愛です。これこそが福音が伝える喜ばしい知らせの真髄である、と彼は語ります。

そして福音が愛であるならば、その愛を証しすることは、避けられない当然の義務となります。つまり、神の御子がこの地に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活されたという事実を知る者は、必然的にそれを「証言」せざるを得なくなるのです。張ダビデ牧師は使徒の働き(使徒行伝)において、弟子たちや使徒たちがどのように証言したかを例としてよく挙げます。ステパノは激しい迫害の中、石打ちによる殉教直前に至るまで、イエスこそ人類の救い主であることを語りました。ペテロは五旬節(オペンテコステ)に聖霊が下った後、エルサレム中の人々の前で福音を宣べ伝え、パウロは異邦の地を巡回しながら、福音の証しを決してやめませんでした。彼らは自分の命をかけて、どんな代償を払ってでもイエスが「真のいのちの道」であることを世に知らせたのです。

このような証言が可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験したからです。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らわれること」と表現します。福音が単に「イエスが誰かを頭で理解すること」にとどまれば、それはパリサイ派的な知識にすぎません。真の福音体験とは、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくださったことに目が開かれ、全存在が変わる出来事です。だからこそイエス・キリストを知る者は自然と福音の証人となり、この地に向かって「神の愛」を伝える使命を受けることになるのです。

張ダビデ牧師は、この福音がすべての人に開かれていることを強調します。背景や学識、道徳的資格の有無に関わらず、すべての罪人に「罪の赦しと新しいいのち」を宣言されたのがイエス・キリストの十字架だからです。特に使徒の働き2章でのペテロの説教場面にある「すべて主の名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を引用し、福音は決して特定の民族や集団だけのものではないことを確かに指摘します。こうして張ダビデ牧師が導くメッセージにおいて、「神の愛」という共通分母は、民族や言語の壁を越え、歴史や文化の限界を超え、罪の中で苦しむあらゆる人生に訪れる、全面的な恵みの実体であると示されるのです。

さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージである点を繰り返し思い起こさせます。すなわち、それは宇宙的規模で人類全体の運命を変えた出来事でありながら、同時に個人一人ひとりの内面と生き方を変容させる力であるということです。私たちが福音を受けて信じるとき、もはやそれは概念や教義ではなく、私たちの内に爆発する新しいいのちの力として働きます。愛を受けた者は愛を流さずにはいられず、恵みを体験した者は、その恵みを世に伝えずにはいられなくなります。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが世界に必要な「唯一の希望」であり、その確固とした土台の上に教会と共同体が建てられるべきだ、と力説するのです。

また彼は、福音を信じ従う人々の間に自ずと現れる実りとして、「互いの重荷を負い合って愛しなさい」というガラテヤ書6章2節の御言葉を提示します。福音が愛であるならば、福音を伝える人々の共同体もまた、必ず愛の喜びと一致に満ちあふれるべきだという意味です。イエスが「わたしはすでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されたとき、それは武力を用いて世を征服するという概念ではなく、愛と仕え合いによって勝利するという逆説的な意味であることを思い出させます。ゆえに教会が福音を握り締め、真に互いを愛する姿で世に仕えるとき、それ自体が世に対する強力な証しとなる、と張ダビデ牧師は強調します。

結論として、張ダビデ牧師のメッセージにおいて「福音の核心は、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成させた」という宣言に要約されます。いかなる哲学的理論や倫理的教えも代替し得ない、この地上のすべての罪人に開かれている偉大な愛の物語、それこそが福音なのです。そしてこの福音の前に立たされたすべての人は、その愛の出来事に応答して変えられた生き方をするようになる、というのが彼の第一の強調点です。


罪と義、そして贖いの道

張ダビデ牧師が第二に深く扱う核心テーマは、「罪と義、そして贖い(大贖)*の道」です。
(*訳注:「大贖(だいしょく)」は韓国語で「대속(テソク)」、英語の“atonement”や“redemption”にも近い概念。)

福音が愛であるならば、なぜ人間にはそのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力ではどうにもできない「罪」の問題が横たわっているのだ、と彼は言います。

まず、罪が何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えです。聖書全体を貫く罪の概念は、単なる道徳的過ちや社会的違反行為にとどまりません。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「罪とは、神を心に留めたくないということだ」という定義に注目します。人間の中には本質的に神を背き、自分が主人になろうとする態度が深く根を下ろしており、その結果、全世界が罪の支配下に置かれたのだと彼は説明します。

続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として支配すること」と要約します。すなわち、人間が罪の下に置かれるならば、その結末は死であるということです。これは単に肉体的死だけを指すのではなく、永遠の滅びと断絶を意味します。だからこそ人間は、いくら善行を重ねたり律法を守ろうとしても、自分の力だけではこの罪と死の権勢に打ち勝つことのできない絶望的状況にあるのだ、と指摘します。律法は罪が何であるかを明確にし、罪がさらに鮮明に暴かれる機能を持つだけで、罪からの完全な解放はもたらしません。

まさにこの地点で、イエス・キリストの「贖い(代贖)の出来事」が飛躍的に現れます。代贖とは文字通り、「誰かが代わりに代価を支払うこと」を意味しますが、張ダビデ牧師はこれを単なる商業的な概念としてだけ理解してはならないと強調します。旧約の犠牲祭(特にレビ記16章の贖罪日)において、いけにえの動物を殺して血を流すことで民の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架において「完全な形」で実現したというのです。つまりすべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスが自ら引き受けてくださったということです。

張ダビデ牧師がローマ書5章18~19節をたびたび取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためです。「ひとりの人アダムによって全人類が罪に陥ったのに対し、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義と認められ、いのちにあずかることができるようになった」というパウロの宣言こそ、その核心です。これは、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味します。

張ダビデ牧師は、代贖の本質こそが「愛」であると補足します。もし贖いをただ律法的視点で理解しようとすると、私たちがイメージするのは「公正な裁判官」が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないため、誰かが代わりに代価(血)を支払ったという、どこか冷たい取引のような構図になりがちです。しかし十字架でイエス・キリストが血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまりません。それは神が私たちにくださった「全面的な贈り物」であり、イエスご自身が喜んで差し出された「自己犠牲的な愛」なのだ、と張ダビデ牧師は語ります。この点を理解するとき、私たちは十字架の出来事がこれほどまでに巨大な衝撃力を持つ理由を、ようやく悟るのです。

こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれます。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義認(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に合致します。彼は、私たちが福音を受け取る瞬間、もはや「罪人」の立場にはとどまらず、神の前で「義人」と宣言されるのだと言います。これは私たちの内面に実際に完全な道徳的完璧さが生じるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからです。義が「転嫁(転加)」されるという神学的概念が、現実に適用されるわけです。

張ダビデ牧師はまた、ヘブル書にある「営の外に出よう」という表現を好んで引用します。旧約の犠牲祭において、罪を負わされたヤギや羊は宿営の外に追いやられて殺されました。イエスもまた、エルサレムの城門の外、ゴルゴタの丘で十字架につけられることによって「贖いの羊」としての役割を全うされたのです。「私たちもあの営の外へ行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を自分も受け継ごうとする挑戦として読むことができます。

ここで重要なのは、贖いを単なる神学用語として学び、頭で理解するだけにとどまらないことです。張ダビデ牧師は、贖いこそが福音の心臓部であるからこそ、私たちもイエスが歩まれた道を見倣うべきだと言います。すなわち、この地上で福音を生きるとき、互いの重荷を負い、時には迫害や誤解に耐えつつも愛をもって仕える生き方を選ばねばなりません。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちの生き方として取り入れる具体的な表現なのです。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできませんが、イエスがそうされたように、愛によって、自分を差し出しながら「営の外」へ進む姿勢によって、世を癒すことができるのだというのです。

張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結びつくときにこそ完全に成就される点を繰り返し強調します。イエスの十字架の出来事が人類の罪を代わりに担った決定的犠牲であったならば、その復活は「死の権威さえ打ち破られた」という神の究極的宣言となります。もしイエス・キリストが死から起き上がられなかったとしたら、代贖は半分のメッセージにとどまらざるを得ません。しかし復活という出来事が実際に起こったことによって、罪と死の束縛を完全に断ち切り、新しいいのちを与える救いの力が証明されたのです。贖いが罪の赦しを意味するのだとすれば、復活はその罪の赦しを受けた者たちが得る「永遠のいのち」を保証する出来事だと見ることができます。

結局のところ、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして贖いの道」は、福音の核心的骨格です。罪の下に置かれていた人間は、律法では到底解決し得なかった行き詰まりを抱えていましたが、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によって最終的に義の地位へと招かれたという宣言。さらにその義を体験した人は、自分中心の生き方を捨て、互いの重荷を負い、営の外へと喜んで出て行き、苦難の中でも愛と従順をもって生きるようになる。その道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的な方法ですが、それこそが真の救いの力となるのです。


宇宙的出事としての救いと復活

張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単に個人の霊的体験や教会の敬虔な生活レベルにとどまらない、「宇宙的出来事」であるという事実です。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、ある特定の時空間で起こった歴史的事件でありながら、同時に全宇宙と歴史のあらゆる局面に影響を与える決定的転換点だというのです。

彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、ひとりの人アダムによって罪が全人類に広がったように、ひとりのイエス・キリストによってすべての人が「罪の赦しと義とされる道」にあずかれるようになったと説明します。これは人類の運命をひっくり返す宇宙的意義が、キリストの救いの業に内包されていることを示すものです。もし私たちが福音を「個人的な救いの体験」や「何か特別な神秘的事件」としてのみ理解するならば、そのスケールを狭めてしまうと彼は言います。

張ダビデ牧師は、この宇宙的視点を明確に示すために旧約の預言と福音書に出てくるイエスのエルサレム入城の場面をよく結びつけて解釈します。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来られる人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的な王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映しています。しかしイエスは実際にエルサレムに入城されるとき、ゼカリヤ書9章9節の預言どおりに「ろばの子に乗って」へりくだって来られました。これは「全能の王でありながら、ご自分の民と苦しみを分かち合う謙遜な王」という複合的イメージとして成就されるのです。

張ダビデ牧師はこの姿を「神の顕現の方法」と呼びます。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように現れ、その権力と力を誇示します。しかし神の御子イエスはむしろ最も低い者の姿で、もっとも卑しい形で入城されました。世の人々にはこれは愚かで弱そうに見えますが、神の救いの方法はこの逆説の上に築かれているのだ(コリント第一1章参照)と彼は言います。

続いて、イエスが十字架で死なれる場面は、大勢の群衆の期待とは逆にあまりにも悲惨に映りました。ローマ人も十字架刑を極悪犯に適用する「呪われた処刑」と見なし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は神に呪われた者」(申命記21章23節)という律法上の定めにより、十字架刑はメシアにふさわしい死ではあり得ませんでした。しかし張ダビデ牧師は、ここで「愛の王」であり「苦難のしもべ」として預言されたイザヤ書53章の御言葉を引用し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖いの勝利なのだと解釈します。神の全能性は人間の常識を打ち砕く形で歴史され、その究極的目的が愛と救いにあるため、十字架がむしろ栄光のしるしになるのだというのです。

張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせます。もしイエスが十字架で死なれただけで終わったならば、それを宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれません。しかしイエスは三日目に死を克服して甦られました。福音書は共通してこの復活の場面を描き、その結果弟子たちは恐怖から大胆へ、失意から熱心な証人へと一変しました。これはすなわち、「死」という人類に普遍的かつ宇宙的な限界を超え、新しい世界への門戸が開かれた決定的証拠となります。死という最大の敵が断ち切られ、永遠のいのちの時代が始まった以上、その影響力は個人を越えて宇宙全体に及ぶというのが彼の解釈です。

張ダビデ牧師は、いわゆるホーリーウィーク(聖週間)と呼ばれるイエスの最後の1週間に焦点を当てながら、この1週間に歴史と宇宙が凝縮されていると説明します。シュロの主日(棕櫚の主日)にエルサレムに入城されるイエスの姿から始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る流れをたどるとき、人類と歴史の運命を変える救いの物語が完結するのだ、と。特にゲッセマネの園でイエスが血の汗を流すほど祈られた場面は、イエスが十字架の道を能動的に選ばれたことを示しています。イエスは単に不当な犠牲者として引かれていったのではなく、人類の罪を担当し死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、霊的な大きな戦いを遂行されたのだというのです。

したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小規模で局地的な事件ではなく、すべての時代と空間を貫く「宇宙的頂点」なのだ、と語ります。この事実を悟るとき、信仰者は単に宗教儀式に参加するレベルを超えて、全存在がひっくり返るような経験をするようになります。私たちがこの地上で直面する苦しみや挫折も、すでにイエスが十字架で担ってくださいましたし、その結果、復活によって最終的に勝利してくださったゆえ、どのような状況でも絶望に閉じ込められないという希望を抱くことができるのです。

張ダビデ牧師は、最終的にこの宇宙的救いの出来事が各個人の人生にも「具体的現実」として及ぶようにと祈っています。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調するのは、「福音が『世界を変える』という壮大な言葉が、実際に教会と聖徒の日常に適用されなければならない」ということです。生活の中でイエスの歩まれた道に倣い、愛と仕え合いを実践し、復活の力を握ることがなければ、宇宙的救いの壮大さも単なる教義や理論に終わってしまう可能性が高い。しかし実生活の中でイエスの道を追随し、復活の力を掴むとき、共同体の中でも社会の中でも「神のご支配」が具体化する奇跡のようなことが起こるのだ、と言うのです。

また、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全な結論であり最終的な志向点です。張ダビデ牧師はこれを死後にだけ与えられる天国と見るのではなく、すでにイエス・キリストの復活を通して始まった永遠のいのちの支配であると解釈します。つまり、イエスを信じることで、私たちは今の地上でもすでに復活のいのちにあずかり、やがてイエスの再臨とともに完成される救いの世界に入っていくということです。こうして復活は、すでに成就されたがまだ完全には到来していない未来領域を同時に示す、「成就と緊張」を含んだ出来事だ、と彼は説明します。

ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を核心として記念してきました。張ダビデ牧師は、イエスが十字架に向かう道が苦難と恥辱の道であったことを詳しく解き明かしたうえで、その道は結果的に「栄光と勝利の道」につながる逆説的な結末へと至ることを強調します。イエスは正しい者としてではなく、罪人として世の罪を担われるために十字架刑を受けられましたが、その死の場でこそ宇宙的な愛と救いが爆発したのだ、と。そしてこれを信じ受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかるのだ、と宣言しています。

さらに、彼はこの復活信仰が教会共同体の中で具体的にどのように実現されるべきかも提示します。もし教会がイエス・キリストのからだであるならば、教会は「復活のいのち」を世に伝える場となるべきだというのです。すなわち、貧しい人々にあわれみと分かち合いを行い、不正な権力や世の流れに逆らって真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、世の知らない真の和解と平和を示す。それこそが復活されたイエスに従う共同体ならば必然的に現れる実りなのだ、と張ダビデ牧師は語ります。

結論として、「宇宙的出来事としての救いと復活」は、張ダビデ牧師のメッセージにおける最も広大な地平を開くテーマです。人間個人の罪の問題や義認、贖いを通じて得る自由と喜びを超えて、この出来事は歴史と宇宙全体を組み替えます。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し教えながら、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に矮小化せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け取るよう勧めます。そしてそのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が示す「逆説的愛の力」であると。どんな神話や物語も包含できない真のいのちと真理がここにあり、信じる者にとっては永遠の希望となるのです。


結び:福音という大な招きと贈り物

第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明しながら、イエス・キリストの到来と死、そして復活がすべて罪人である人間に与えられた神の贈り物だという事実を浮き彫りにします。福音こそ、単なる教義や情報ではなく、いのちの力であり神の愛の表現であり、それを信じ受け入れる者は誰でも新しいいのちを得て、その愛を証しする者として生きるようになる、というメッセージを伝えます。

第二に、「罪と義、そして贖いの道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く省み、律法では解決できないこの問題を、イエス・キリストの贖いの犠牲によって救われることができると説きます。イエスはすべての罪人の立場を引き受けてくださり、その血潮と復活によって私たちを罪から解き放ってくださいましたという宣言は、ローマ書やヘブル書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となります。贖いを単なる法廷用語にとどめず、イエスの自己犠牲的愛として捉え、体験することで、私たちの生き方もまたそうして変わっていくべきだという勧めが核心です。

第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の中だけで起こった事件を超え、全宇宙を揺るがす決定的転換点であると強調します。ダニエル書、ゼカリヤ書、イザヤ書など旧約の預言と福音書が交わるところで、十字架と復活がいかに神の顕現の方法を示し、死さえも打ち破る絶対的勝利を表すのかが示されます。そして復活は、死に勝利された神の力の頂点であり、その力を信じる者は現在も、そして未来においても永遠のいのちにあずかることになると確信をもって語ります。

このように三つの軸に沿って福音を眺めると、最終的にはイエス・キリストの道こそが愛と救いの道であり、彼がお示しになった苦難と復活はすべての時代と宇宙の中で唯一の希望として位置づけられます。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして献身の生き方へとつなげるよう信徒を励まします。人生でどんな試練や誘惑、絶望に直面しても、主がすでに通られた十字架と復活の道こそが真理でありいのちの道だという確信を握りしめよ、と。そのとき私たちの人生は一変し、福音は私たちの内面と共同体、さらには社会を変革する力となるのだというのです。

結局、張ダビデ牧師のすべての教えは、「福音」という壮大なテーマを三つの軸—「神の愛」、「贖いの道」、「宇宙的救い」—へと還元して語ることができます。この三つの軸は互いに分離できず、共に絡み合いながら私たちをイエス・キリストの真の救いへと導きます。それゆえ、このメッセージを聞き、黙想する者たちは、クリスマスにイエスの到来を喜び、受難週にイエスの十字架を思い、イースターにイエスの勝利を賛美するとき、これらすべての出来事が一つの救いの物語であることを改めて悟ることになるのです。そしてそれは、宇宙と歴史、そして私たちの日常のただ中で進行している神の救いのドラマが、いかに壮麗で驚くべきものであるかを気づかせる契機となります。

このように福音は、人間の限界と罪にもかかわらず、罪人を最後まで愛してくださる神のご性質を私たちに体得させ、その愛を模範として世へ出て行き、互いに仕え合う共同体を形作らせます。贖いは罪と罰という法廷的な概念を超えて、私たちに神の子どもという新しい身分を与え、真の自由と喜びをもたらします。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を超えて世界全体に対する神のご計画を示します。その中に参加する者は、すでに新しい時代を生き始めており、やがて完成される未来を望みつつ歩むのです。

これらすべての洞察が一つに集まるとき、私たちは張ダビデ牧師が語る福音のメッセージが、単なる理論的次元を越えて、実生活のあらゆる領域を刷新する「生きた御言葉」になることを悟ります。結局、福音が必要とされる理由は、人間の歴史や宇宙が自らを救う力を持たないからです。神の御子イエス・キリストが来られ、死なれ、復活されたことによってのみ、罪と死に打ち勝つ道が開かれ、その道を歩むすべての人には永遠のいのちと勝利が与えられる—これこそが張ダビデ牧師が幾度となく宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり贈り物なのです。

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