
1.エルサレムのマルコの屋上の間、復活信仰の現場
エルサレムにあるマルコの屋上の間は、キリスト教教会史において特別な意味をもつ空間であり、同時に現代の教会共同体に深い霊的な洞察を与える場所として広く知られています。この屋上の間は、使徒の働き1章から2章へと続く非常に重要な場面の舞台となった場所で、初代教会の誕生と聖霊降臨の出来事が起こったと伝えられています。また、その始まりである使徒の働き1章には、復活されたイエス様が地上での働きを終えられる時点、すなわち昇天直前に弟子たちに最後の託しと約束をくださった場面が記されています。さらに、この屋上の間は単なる物理的空間にとどまらず、「初代教会が恐れの中でもエルサレムの真っただ中に集まり、歴史的変化を起こした象徴的な場所」という点で重要な意味をもっています。
張ダビデ牧師は、この場面について「たとえ弟子たちが恐怖と不安に震えていたとしても、イエス様は復活された後約40日の間、彼らを直接訪ねて立て直し、信仰を吹き込み、それからエルサレムへ集まるように導かれた」と説明します。弟子たちはガリラヤにまで散り散りになりましたが、復活されたイエス様に出会って初めて「復活信仰」によって武装され、エルサレムに戻って来ることができました。これは信仰共同体の中で復活がいかに力を発揮するかを如実に示す事例であり、その出発点がマルコの屋上の間であったわけです。
では、なぜあえてエルサレムでなければならなかったのでしょうか。イエス様が捕らえられ、そこで処刑された都市がエルサレムです。弟子たちにとっては非常に恐ろしく悲惨な記憶が残る場所だったに違いありません。主が十字架につけられた後、多くの従者たちは四散してしまいました。しかし主は「エルサレムを離れないで、父が約束された聖霊を待ちなさい」(使徒1:4-5)というみことばを直接与えることで、弟子たちがむしろ最も危険で恐ろしい地域へ再び集まるように導かれました。張ダビデ牧師は、このことを「神のなさる御業は常に私たちの期待や常識を超越する。復活信仰とは、最も絶望的な場所で最も希望をもたらす力を発揮するときに明らかになるものだ」と解釈します。
復活信仰の特徴は、「死が終わりではない」という確信にあります。弟子たちは一時、「主が処刑され、自分たちも捕らえられて死ぬかもしれない」という恐れの中でうずくまっていましたが、イエス様が実際に死の力を打ち破ってよみがえられた姿を見て、「死を超えた新しい時代」を体験したのです。だからこそ、使徒の働き1章3節は、イエス様が復活された後40日の間「神の国のことを語られた」と証言します。ここでいう「神の国のこと」とは、単に漠然とした終末論や哲学ではなく、現実の中で教会がどのような力によって建て上げられ、いかに前進すべきかという具体的な方向性を含むものです。その中心の一つが「あなたがたはエルサレムから始めなさい」というみことばなのです。
張ダビデ牧師は、「人が最も弱くなり、挫折した場所で再び回復するという歴史こそが『復活信仰の実際』と呼べる」と語り、これこそマルコの屋上の間が与えてくれる教訓だと強調します。最初に弟子たちがこの屋上の間に集まったとき、その雰囲気はきわめて息をひそめた状態だったことでしょう。十字架の出来事直後、イエス様の遺体は墓に葬られ、指導層はイエス様の残党を根こそぎ一掃しようと躍起になっていました。そうした状況ゆえに、この屋上の間は「しばらくの間集まり、祈るための安全な隠れ場所」として利用されていたかもしれません。しかし主は、「そこで立ち止まるのではなく待ちなさい。それはただ留まれという意味ではなく、聖霊を受けるまでとどまることを言っているのだ」とおっしゃいました。こうしてマルコの屋上の間は「無力な避難所」から「力の源泉」へと変わっていきますが、その理由はまさに聖霊の降臨によるものです。
やがて聖霊が下ると(使徒2章)、もはや彼らは恐れに隠れる弟子たちではありませんでした。恐怖の空間だった屋上の間が、復活の確信と聖霊の力が下る現場となると、弟子たちはそこを出てエルサレムの街へ繰り出し、大胆に福音を宣べ伝え始めました。これについて張ダビデ牧師は、「復活が単なる教理としてとどまっているだけでは意味がないが、復活信仰が実際の生活を覆す力となるとき、人々はついにエルサレムの城内ですら恐れを乗り越え行動する変化を見ることになる」と力説します。
こうした「行動する信仰」は、そのまま使徒の働き全体に表れます。エルサレムから始まり、サマリアとユダヤ全土、さらに地の果てに及ぶ歴史的な福音伝播の旅路が広がっていくのです。信仰が行動へとつながった最初の場面は、使徒の働き2章のペンテコステ(五旬節)の出来事に明らかです。奥まった部屋に隠れていた者たちが街へ出て福音を宣べ伝え、一日に数千人が悔い改めてバプテスマを受けるという壮観が繰り広げられました。その火点がまさにマルコの屋上の間でした。
一方、この屋上の間は「教会の母体」や「教会の子宮」にたとえられることもあります。その理由は、新しい時代がまるで新しい生命の誕生のように、復活されたイエス様への確信と聖霊降臨によって実際に「新しい共同体」がその中で胎動したからです。イエス様がまだ地上におられた時期は、弟子たちはみことばを学びながら共に歩む“修学”の段階と見ることができます。しかしイエス様が昇天され、聖霊が下った後、弟子たちは「教会共同体の柱」として自ら福音を広げていく主体へと変わりました。屋上の間はその転換の中心部であり、その原動力こそが「復活信仰」だったのです。
ヨハネの福音書21章に描かれるペテロの回復の場面を思い起こすと、弟子たちがどのように復活されたイエス様と出会い、再び使命を確認してエルサレムへ戻り従順したのかを理解できます。ペテロが主を三度否認した後、主は「あなたは私を愛するか」と三度問い、ペテロがその愛を告白することで、打ちのめされた自分自身を抱きしめ、「岩(ペテロ)」として新しく生まれ変わります。張ダビデ牧師はこの場面について「教会は特定のプログラムや組織力で動くのではなく、根本的な原動力は『主への愛』にある。その愛は主の復活から来るものであり、私たちを受け入れてくださったその恵みを心から信じ、口で告白するときにようやく揺るぎないものになる」と解説します。
マルコの屋上の間もまた、このような「告白」と「悔い改め」と「信仰」の集積所でした。主を否認した弟子たち、四散してしまった弟子たちが再び戻り、一つの共同体となり、絶望を越える勇気をもって集まれたのは、主の復活と聖霊の約束があったからです。「マタイの福音書26章以降に記されたイエス様の受難の現場と、ヨハネの福音書21章でガリラヤに戻った弟子たちの姿、そして使徒の働き1章のエルサレムへの帰還が一本の線でつながるとき、初めて復活信仰は今日の教会に実質的なメッセージを与える」と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。
かくしてエルサレムのマルコの屋上の間は結果として、「恐れから大胆さへ、散り散りから集まりへ、恥と否認から悔い改めと告白へ」と転換する現場となりました。現代の教会がこの点を深く黙想する必要があります。つまり「教会がある時点から社会的非難や迫害の恐れの中に閉じこもってばかりいるなら、再びマルコの屋上の間に下った聖霊の炎が必要だ」というメッセージを得ることができるわけです。これは復活信仰の現在的応用でもあります。死を打ち破り復活されたイエス様が、まるで今も私たちと共におられるように教会を建て上げ、その教会が世のただ中で大胆に福音を伝えられるよう後押ししてくださるという事実を握るとき、私たちは「エルサレムから始まって地の果てに至る」道を喜びのうちに歩むことができます。
これらすべての文脈の中で、張ダビデ牧師は「マルコの屋上の間を単なる歴史的場所として見るだけでなく、現在の教会ごとにそれぞれの屋上の間を回復する必要がある」と強調します。それは「聖霊の臨在を慕い求め、祈る場所」であるかもしれませんし、「復活信仰を共に握りしめ、告白する場所」であるかもしれません。屋上の間に集まって祈るということは、内向きに隠れる行為ではなく、「そこで力を受けて世へ出ていくための最終準備」という点が核心です。イエス様が弟子たちに「まもなくあなたがたは聖霊によるバプテスマを受ける」(使徒1:5)と言われたように、その約束が「屋上の間」で成就したからこそ、初代教会は決して消えることなく全世界に広がっていったのです。
2.マッティアの選任、ユダの空席を埋める教会の回復
使徒の働き1章の後半では、弟子たちが十二番目の使徒の座を新たに埋めるという出来事に直面します。復活祭を過ぎ、ペンテコステに向かうあいだの最大の課題の一つは、「イエス様が十二人のひとりとして召されたイスカリオテのユダが裏切り、その後処理をどうするのか」でした。ユダはイエス様を銀貨三十枚で売り渡したのち、自ら首をつって死にました。それだけでなく、不正な代価で畑を買い、その場所で体が落ちて内臓が裂けたという記録(使徒1:18)のため、「血の代価の悲劇」を象徴する人物となってしまいました。
張ダビデ牧師は、ユダの悲劇を「最も身近にいた人物が、かえって最も大きな犯罪を犯した事件」と表現します。ユダは弟子共同体の中で会計係をしていた人物でしたから、実質的に財政を管理し、奉仕する重要な地位にありました。教会でも同様に、財政を任され奉仕する立場は恵みに満ちるべき重要な場所であると同時に、サタンの誘惑と試みにさらされやすい通路でもあるというのです。なぜなら共同体を運営するにはお金が必要であり、ときにこのお金が世俗的な利益や欲望に触れてしまうからです。したがって聖書は教会に「金銭を愛することがあらゆる悪の根源である」(テモテ第一6:10)と繰り返し警告し、また初代教会が「すべての財産を互いに共有し、人々の必要に応じて分け与えた」(使徒2:45、4:34)と記すことで、物質に囚われて腐敗しないよう焦点をはっきりさせているわけです。
しかしユダは、物質的な欲望や政治的思惑のすき間からサタンに利用され、ついにイエス様を売り渡す裏切り者となってしまいました。彼は裏切り直後に遅すぎる後悔をしましたが、正しい悔い改めには至らず、極端な選択をして命を絶ち、結果として「弟子の一人を失った」という痛ましい傷を教会に残したのです。十二弟子はイスラエルの十二部族を象徴する霊的支柱であり、主が直接建てられた「新しい契約共同体の門」のようなものでした。その片方の門が壊れたわけですから、この門を再び建て直す作業は急務だったことでしょう。
そこで使徒の働き1章では、この欠員を埋めるための会合が開かれます。ここで初代教会は、新たに使徒の座を満たす人物としてマッティアを選びます。その過程を注意深く見ると、教会の危機対応のあり方を学ぶことができます。使徒の働き1章21~22節で、ペテロはこう提案します。「主イエスが復活される証人となるために、私たちといつも行動を共にし、ヨハネのバプテスマから主が昇天される日までずっと一緒にいた者の中から一人を選び出そう」。その結果、二人が候補に挙がり、初代教会はその場でくじを引いてマッティアを選任しました。
張ダビデ牧師は、ここで注目すべきいくつかのポイントを挙げています。第一に、初代教会が「復活の証人」であることを最優先の資格要件とした点です。教会が存在する目的は、復活された主を証しすることにあるので、使徒の核心的使命もまた復活の知らせを伝えることでした。マッティアをはじめ候補となった人々は、イエス様の公生涯と苦難、死、復活までの一連の流れをそばで見守っていた者たちで、事実上、十二使徒と共にずっと行動し学んでいた人たちだったのです。第二に、選考の過程における共同体的合意と祈り、そしてくじ引きが印象的です。「すべての人の意見と教会の合意が重んじられ、最終段階で神の主権的決定に運命を委ねる方式」が取られたということです。これは教会が単なる人間的な計算や政治的妥協によってリーダーを選ばないことを示唆します。第三に、こうして選ばれたマッティアが、その後どのような力を発揮したかについては聖書に長々と記録は残っていないものの、この出来事をきっかけに十二使徒が完全に回復し、再びペンテコステの聖霊降臨を迎える準備が整ったという事実が重要だという点です。
では、なぜこの選任の過程が重要なのでしょうか。聖霊が下る直前に教会が最初に行ったことが、「指導者チーム(使徒団)の回復」だったからです。ユダがもたらした欠員と裏切りによる傷を癒さずにいては、教会が完全に一つになることは難しかったでしょう。人々の心の奥には依然として「私たちの仲間が主を裏切った」という裏切られた思いが残っていましたし、その中で弟子たちは互いへの信頼を回復することが急務でした。また、それぞれに散らばっていた弟子たちが再びエルサレムに集まり共に祈る中で、「もはやあのような裏切りが起きてはならない」という強い結束を固める必要があったのです。
張ダビデ牧師は、「教会の中に生じた傷、指導者の裏切りがどれほど共同体を崩壊させ得るかを、ユダの事件が象徴的に示している」と指摘します。それゆえ初代教会は、イスカリオテのユダの事件を単に忘れたり覆い隠したりするのではなく、教会が最初の歩みを踏み出す時点で透明に整理し、乗り越えていったのです。ユダが残した血の代価の金銭は神殿に投げ捨てられ、それで「血の畑」が買われたこと(マタイ27:5-8)は公然と明るみに出されました。教会はこの恥ずかしい歴史を隠すことなく、むしろ預言(エレミヤや詩篇)に基づいて「このことが預言の成就過程の一部」とまで受け止め、共同体全体で声を合わせて祈り、新しい人物を任命したのです。
こうしてマッティアが使徒の座を継承しました。教会は再び十二使徒という枠組みを回復し、その中でより強固な霊的結束をもってペンテコステの聖霊降臨を迎えました。そしてその聖霊の力を受けた使徒たちは、エルサレムを起点としてユダやサマリアを越え、地の果てまで福音を広げていきます。もしユダの裏切りと死による内紛や傷が放置されていたら、教会は出帆する前から崩壊する危険が大きかったでしょう。しかし逆に、その傷をさらけ出し解決し、回復のプロセスを公に宣言したことで、教会はより成熟した姿に生まれ変わることができたのです。
別の視点から見れば、ユダの失敗と死は初代教会に「いかなる者もこの道で油断してはならない」という警醒を与えたとも言えます。3年もの間イエス様に直接従い、奇跡やみことばに接し、会計係を任されるほど信頼を得ていた人物ですら堕ちることがあるという事実は、教会の構成員なら誰しも誘惑に陥る危険があることを思い起こさせます。張ダビデ牧師はこの点について、「現代の教会のリーダーシップも同様だ。どんなに優れた人に見えても、絶えずみことばと聖霊によって自分を点検し、目を覚まして祈らなければならない。そうしなければ、サタンはいくらでも私たちを餌食にしてしまう可能性がある」と警告します。教会史には、裏切りと堕落の歴史が決して少なくありませんでした。しかし同時に、神はその度ごとに(マッティアのように)新たな人物を建てて教会の空席を埋め、歴史を続けてこられたことも事実なのです。
では、現代の教会がマッティア選任の出来事から学べる点は具体的に何なのでしょうか。第一に、教会は共同体的合意と祈りの中で最も重要な指導者の座を補っていくべきだということです。単に能力・名声・政治力だけを見て指導者を立てるのではなく、「復活信仰を確かにつかんでいるか」「主と共に歩んできた時間があるか」「主の苦難・死・復活をそばで目撃し、自分の人生をもって証しできるか」といった核心的信仰告白のほうがはるかに重要なのです。第二に、指導者の裏切りや教会内の大きな傷が生じたとき、それを単に「個人の悲劇」として隠すのではなく、共同体全体が痛みを共有しながら「どう回復するのか」を祈りとみことばの中で探る必要があるということです。ユダが倒れた後、初代教会が彼を激しく糾弾することに時間を費やすのではなく、主のみことばと預言を探り研究し、それに即したかたちで「新しい道」を開いた姿勢には学ぶべき点が多いのです。第三に、こうした回復のプロセスは最終的に「聖霊降臨」に焦点を当てていたということです。教会がなぜわざわざ聖霊降臨前にこの事件を取り扱ったのか。それはペンテコステの聖霊を受けるにふさわしい完全な状態に自分たちを整える必要があったからです。不義や混乱が整理されていないままで、聖霊の偉大なみわざを期待するのは難しいでしょう。張ダビデ牧師は「教会が聖霊のわざやリバイバル、成長などを口にする前に、まず内部の罪や不義を真剣に扱い、指導者の堕落があればそれを隠蔽せず真摯に癒しの道を探らなければならない」と強調します。
ユダから離れ、マッティアが建てられたことが「一つの象徴」だとすれば、それはすなわち「教会はいかに大きな傷を負っても、神のご計画の中で必ず回復の道を見いだす」というメッセージです。もちろん、ユダはもともと「見捨てられた者」だったのではなく、自らの選択によってその道を進み、取り返しのつかない悲劇に陥ったのです。教会は誰であっても回復と救いの道に招きますが、個人がそれを最後まで拒むなら悲劇は起こり得ます。教会はこうした悲劇をむやみに覆い隠すのではなく、悔い改めと刷新の力を探し、新しい道を切り開いていかねばなりません。そのプロセスで「復活信仰」が核心的エネルギーとして働くのです。
復活信仰とは「死を終わりにせず、再び生かされる神の力」を信じることです。ユダはイエス様を死に追いやった張本人でしたが、その後の罪悪感に押しつぶされていきました。しかしイエス様は復活によって「いのちの道」を開かれました。イスカリオテのユダの裏切りが教会にもたらした衝撃と恐怖は、イエス様の復活がもたらす希望によって乗り越えられたのです。マッティアがその空席を埋めたとき、十二使徒は再び一つになって聖霊を待ち、やがて教会に火のように下った聖霊によってエルサレムで大胆に福音を宣べ伝え始めました。使徒の働き1章から4章を読めば、ペテロとヨハネが神殿の守衛隊や宗教権力の前でも恐れを感じず、「イエスの名のほかに救いはない」(使徒4:12)と宣言する場面が出てきますが、この時のペテロはもはや「鶏が鳴く前にイエスを三度否認したペテロ」ではありません。彼はマルコの屋上の間で回復された者、聖霊を受けた者、そしてマッティアと共に「完全な使徒団」を形成するリーダーとして堂々と福音を叫ぶのです。そこには「崩れ去った指導者の一人の座すらも神が回復された」という力強いメッセージが込められています。
張ダビデ牧師は、「ユダを失いマッティアを得た教会が『血まみれの傷』を癒されたように、教会も絶えず過去の傷や苦しみを癒され、新しいぶどう酒のための新しい革袋を満たしていく必要がある」と語ります。これは初代教会だけの物語ではなく、現代の教会もさまざまな紛争・腐敗・裏切りといった出来事を経験するときがあり、そのたびにどう「新しいマッティア」を立てて共同体を整え、聖霊の働きを受けるかを考えねばならないというのです。
教会は「聖霊によって新しい時代を切り拓く共同体」であると同時に、「裏切りと悔い改め、死と復活、挫折と回復」という数々の交差点を通過しながら成長していきます。イスカリオテのユダはイエス様の死を早め、マッティアはその空席を埋めて福音の門を拡大しました。ペテロは否認して逃げましたが、イエス様は再び彼を探し求めてヨハネの福音書21章でその愛を回復させ、使徒の働きではまっさきに説教を展開するリーダーに立てられました。このように使徒たちが再編成を終えた後、初代教会はマルコの屋上の間という空間で聖霊が下る壮観を体験します。そして聖霊が下った瞬間から、教会はもはや隠れることなく街へ出て福音を宣べ伝え始め、たちまちエルサレムが大きく揺り動かされたのです。
現代でも教会が同じ体験をすることはあり得るのでしょうか。張ダビデ牧師は「もちろん可能だ。ただし、その条件は、今日の教会が復活信仰の実際的な力を信じ、内部の問題(裏切り・腐敗・不信)を悔い改めと祈りによって解決し、聖霊の導きを完全に求めるかどうかにかかっている」と主張します。マルコの屋上の間とマッティアの選任は、教会がどのように復活された主の力を日常生活の中で体験し、いかなる方法で共同体内の葛藤と傷を克服し、新しい時代へ踏み出すのかを示す代表的な事例です。
復活信仰によって象徴されるキリスト教の核心は、「この地上の死、絶望、失敗が決して最後ではない」という信念です。イスカリオテのユダという絶望的な事例があっても、教会はマッティアを通じて福音宣教の長い歴史を継承していきます。私たちが時にペテロのように主を否認し、罪悪感の中に生きていても、ヨハネの福音書21章のように主が親しく私たちを再び訪ね、回復させてくださいます。その恵みが私たちをエルサレムのマルコの屋上の間へと導き、無気力ではなく大胆な聖霊の力をまとって世のただ中へ踏み出すようにしてくださるのです。
こうしたプロセスを経て、初代教会はついに使徒の働き28章最後の節で「だれにも妨げられることがなかった」という堂々たる宣言をもって締めくくられます。福音宣教を妨げることはできなかった、という意味です。パウロはローマの獄中にあってさえ福音を宣べ伝え、ペテロは歴史的記録によると逆さ十字架にかけられる殉教によって使命を終えましたが、彼の後を継ぐ多くの弟子たちが再び教会の欠員を埋めていきました。このように教会は周期的に揺れ動き、倒れることがあっても、復活信仰と聖霊の力の中で新たに立ち上がるのです。十二弟子のうち一人が倒れても、神はその使徒職を回復し、地の果てまで続く道を用意しておられます。
マッティアの選任は、まさにこの「回復」と「前進」の二つの精神を同時に内包しています。教会が内部の傷を癒し、復活信仰に基づいてより大きなビジョンへ向かう出発点となるからです。このメッセージは現代においても依然として有効であり、教会の指導者たちが奉仕の現場で様々な葛藤や問題に直面するたび、「初代教会はどのようにこの難局を突破したのか」を振り返るなら、結局その答えは「復活信仰の確固たる告白と聖霊降臨を待ち望む祈り、そして透明な共同体的手続き」にあることに気づくでしょう。
張ダビデ牧師はこれをまとめながら述べています。「復活とは力である。その力が私たちの心の内に働くとき、人を生かし、教会を生かし、キリストのからだを建て上げる。どんなに大きな裏切り者がいても、その裏切りを乗り越えて教会は次の段階へ進む回復と新たなスタートの道を見いだすことができる。ユダの失敗が教会史の終焉を意味しなかったように、現代の私たちが直面するいかなる大きな傷も神の国の約束を消し去ることはできないのだ。」
ここに「エルサレムのマルコの屋上の間とマッティアの選任」が一つに結びつく決定的な理由があります。マルコの屋上の間は、息をひそめて隠れていた弟子たちが聖霊降臨を経験し、世に向かって福音を宣べ伝え始めた火点だとすれば、マッティアの選任は、十二使徒のうちの一人の裏切りと死を乗り越えて教会が再び「完全な共同体」として生まれ変わる場面です。この二つのストーリーは、「教会の中の裏切り・否認・恐れが、主の復活と聖霊の臨在によってどのように回復と力の歴史へと変わっていくのか」を総合的に示しています。そこには悲しみや悔恨が入り混じりますが、それ以上に強力な神の恵みが注がれています。その結果、初代教会はエルサレムを越えて地の果てまで福音を宣べ伝える道へと勇躍していくことができたのです。
今日の教会も同様です。ある地域の教会や共同体が、まるでマルコの屋上の間のように「現代的意味での屋上の間」を回復し、復活信仰に満たされるなら、そしてイスカリオテのユダが残していった傷を、マッティアのような選任によって透明でみことばに忠実な方法で癒すなら、聖霊の新しい働きを期待できるでしょう。ペンテコステの出来事は2000年前のある場所で一度だけ起こった「歴史的な単発の出来事」ではなく、あらゆる時代と地域の教会が体験し得る神の運動なのです。
このような教えは、張ダビデ牧師が一貫して強調してきた「復活信仰の実践性」と深く結びついています。もし聖書に記されたイエス様の復活を知的に受け取るだけで終わるなら、それは単なる教理にとどまります。しかし初代教会は、この復活を実生活の原動力とし、裏切りや苦難、死や絶望ももはや終わりではないことを実地に示してみせました。ペテロや使徒たちがエルサレムの真っただ中で自分たちを殺そうとした勢力にも大胆に福音を宣べ伝える様子は、復活がいかにリアルで爆発的な力をもたらすのかを端的に物語っています。
したがって「教会とは何か」という問いに対して、「エルサレムのマルコの屋上の間から始まり、イスカリオテのユダの裏切りをマッティアの選任によって回復し、聖霊降臨によって全世界へ広がった共同体」と答えることができるでしょう。そのアイデンティティは歴史の時空を超えて今も有効であり、教会が復活信仰を守る限り決して閉ざされません。ときには教会内部で致命的な亀裂が起きたとしても、神は新しい人物を建ててその席を回復し、再び聖霊を注がれるのです。これこそが「エルサレムから始まりローマに至り、さらに全世界に及ぶ」福音の連続性であり、現代の教会が継承すべき信仰の遺産です。
張ダビデ牧師の結論的勧めも、この点に集約されます。「私たちは現代の屋上の間を回復しなければならず、裏切りや失敗が起こったとき、それを覆い隠すのではなく真実に悔い改め、透明に解決することで、神が与えてくださる新たなスタートの機会をつかむべきです。その中心には『復活の主』がおられ、その主が教会を通して成し遂げようとされる宣教の使命が置かれているのです。」教会がこの道に従順するとき、使徒の働きの歴史は中断されることなく、今もなお展開していくに違いありません。