救恩之路 – 张大卫牧师

Ⅰ. 律法与福音的关系,以及凭信心所开启的恩典世界 在开始解释罗马书第4章之前,张大卫牧师强调需要先关注罗马书3章31节。保罗在此说:“难道因着信心就废掉律法吗?断乎不是!”这句话是为了解除关于律法与福音关系的争议而设定的前提。并非因福音而令律法变得完全无意义,反而应当看到,福音乃是对律法的“成全”和“完成”。只有在此理解之下,才能更加清晰地看待罗马书第4章的整体内容。张大卫牧师指出,保罗正是竭力要让人们明白这一点。如果把律法比作一个小三角形,那么福音就是包含这个小三角形的大三角形;若把律法比作一个小圆,那么福音就是包容那个小圆的大圆。也就是说,律法绝非被废掉,而是在更大的恩典框架之内,其本质意义得到了完满。这正是福音的概念。 从“福音包罗律法”的这一角度出发,张大卫牧师强调,应将旧约与新约都视为彰显神恩典、带来救恩的两种形态。在旧约里,已经多次记载了因“信心”而得救的事件,也记录了神因着恩典所行的作为;同一位神在旧约与新约中都始终如一地工作,这是不能被忽略的事实。保罗也正是要阐明这个要点,才在罗马书第4章举出亚伯拉罕和大卫的例子。然而很多人在研读罗马书时,往往轻易略过第4章,或者认为“这一章是写给犹太人的”,就急着跳到第5章。对此,张大卫牧师提醒我们要仔细思考:保罗为何用了如此充分的篇幅,专门来谈亚伯拉罕、大卫,以及割礼和律法的问题?这是因为保罗对自己的同胞犹太人怀有深切的忧思与热情,想要尽力纠正他们对律法和恩典福音的错误理解。这一背景值得我们留意。 张大卫牧师特别指出,犹太人当中存在一种误解:“若接受福音,那岂不是意味着废除律法吗?”但保罗强调,律法与福音并非互相对立或矛盾。当律法的目标得以实现之时,恩典的福音也就得到了完整彰显。福音并不排斥律法,反而完全承担了律法的本来目的——让人知罪,并揭示人无法凭自己达到神的义,最终将人引向基督。因此,“因信称义”并不是在新约时代突然出现的教义,而是早已在旧约中一贯彰显的神的救恩方式。罗马书第4章正是要突出这一点。 在犹太人的历史中,至关重要的两个人物就是亚伯拉罕和大卫。张大卫牧师说明,保罗挑选他们二人是极具巧思的。亚伯拉罕在血统和信仰上,都被犹太人视为“祖先之父”;而大卫是以色列王国鼎盛时期的代表,也是预表弥赛亚王权的关键人物。路加福音16章中的比喻曾说“拉撒路死后被带到亚伯拉罕的怀里”,这就表明犹太人对亚伯拉罕拥有极高的尊崇。此外,大卫写下许多诗篇,也被视为与主耶稣的王权血统相连之人。马太福音1章1节称:“亚伯拉罕和大卫的子孙,耶稣基督的家谱。”由此可见,马太以亚伯拉罕和大卫为谱系的基准点。保罗在罗马书第4章提到亚伯拉罕(13节、912节)与大卫(68节)的布局,正是一种“以犹太人最具权威的两位伟人来阐明福音真理”的方式,正如张大卫牧师所说。 保罗所提出的问题是:“亚伯拉罕和大卫究竟如何在神面前被拣选并称义?”答案只有一个——神的恩典和人的信心。这并非在福音出现后才突然诞生的新模式,而是在旧约时代就一直存在、且持续不断的神之救恩历史。张大卫牧师解释道,保罗似乎在说:“如果在律法之前,亚伯拉罕已经因信而被称为义;如果大卫因为悔改而写下诗篇,宣告‘得赦免其罪的人是有福的’,那岂不正是福音的基础吗?” 在罗马书4章1~3节,保罗首先强调了亚伯拉罕的例子。他说“亚伯拉罕若凭肉体可夸,就无可夸耀”,提醒人们亚伯拉罕是偶像商人他拉的儿子,从血统或人的资历来看,根本无可自夸。张大卫牧师指出,这突显了“人本质上是罪人,若无神的恩典,就无法得救”的严肃现实。实际上,在创世记第12章里,当亚伯拉罕离开本地、本族、父家,顺服神的呼召时,他并非凭自己有什么功劳,而是纯粹出于对神的信任与顺服。于是,圣经才记载“亚伯兰信耶和华,耶和华就以此为他的义”(创世记15章6节)。这表明即使在律法尚未颁布之前,“因恩典所及而算为义”的原则就已经在运作了。 张大卫牧师还补充说:“对于做工的人,他的工价算不得恩典,而是应得的酬劳;但那不做工却蒙神称为义的,才是真正有福之人。这正是保罗一再强调的。”这与马太福音20章葡萄园工人的比喻或马太福音9章税吏马太蒙召成为门徒的事件相呼应。那些早已遵守律法且自以为义的人(法利赛人),最终往往无法真正体会到神“全然恩典”的内涵,甚至对它心生抗拒;反倒是承认自己罪孽的税吏,一旦悔改,就立刻得着神的怜悯与恩惠。其中蕴含的“悖论”真理便是,保罗所说“因行为而生的功劳之信”极其危险,“惟独因恩典而来的救恩”才是有福的。张大卫牧师表示,这些故事正好凸显了保罗所传讲的信息:指望靠行为得称义是错谬的,唯有恩典才能拯救人。 更深入来看,罗马书4章6~8节引用了大卫在诗篇32篇中的告白:“大卫虽然犯下夺人之妻、杀人之罪,但当他悔改时,神就遮盖了他的罪。‘得赦免其过、遮盖其罪的,这人是有福的。’”这是因为大卫并不自以为义,而是单单仰赖神的怜悯与恩典。所以保罗在此引用诗篇32篇,让犹太人看到:“大卫早就经历了这份恩典。在律法与旧约的敬拜模式之外,更重要的是认罪并得着神的赦免,这本身就透露出福音的核心。难道你们犹太人自己不清楚吗?” 进一步而言,亚伯拉罕得称义的关键时刻,并不是他在99岁受割礼之后,而是在他约75岁时尚未受割礼之前。张大卫牧师指出,这对“将割礼视为得救前提”的犹太思维是个极具挑战的信息。亚伯拉罕之所以成为“信心之父”,并非因为血统、肉体功劳或仪式,而是因着他凭信心被神称为义。因此,保罗在罗马书第4章里极力说明,救恩绝非基于律法功劳或血统的优越性,而是基于因耶稣基督而来的神的恩典,以及人对这恩典的信心。这对犹太人,也对今天的我们都有重要启示。张大卫牧师进一步补充说,这正是保罗的核心论点——亦是他在犹太文化和对弥赛亚信仰的深刻体悟之上,所形成的精妙教导。 总之,律法让人看清罪,让罪人明白自己在神的义面前无法站立。然而福音却宣告:耶稣基督借着十字架与复活,替我们担当了罪和刑罚,白白赐给我们义的地位。保罗在罗马书4章15节说:“因为律法是惹动忿怒的;那里没有律法,那里就没有过犯。”张大卫牧师解释,正是因为律法使人更加自觉罪孽的沉重,并让人受制于不可背负的命令,所以才会带来“咒诅”和“定罪”。但当耶稣基督代替我们承担了这一切,我们便终于得享自由。所以,保罗在罗马书4章整章都在阐述律法与福音的关系,并最终高举“因信称义”这向所有人敞开的恩典之路。 Ⅱ. 亚伯拉罕与大卫所展现的信心:张大卫牧师眼中的旧约“恩典”见证 张大卫牧师认为,罗马书第4章并非只是在罗列抽象的神学概念,而是借着亚伯拉罕与大卫这两位旧约代表人物,清晰展现“神的恩典早已在历史中运作”的证据。以色列子民最敬重的先祖亚伯拉罕,以及最辉煌的王大卫,他们二人都并非凭行为得称义,而是因信心得以被神悦纳。这正是串联旧约与新约的核心教导。 首先,在亚伯拉罕身上所体现的信心核心,可以概括为“相信那使死人复活之神的大能”。创世记第15章中,神应许亚伯拉罕:“你的后裔要像天上的星那样多。”但从现实来看,亚伯拉罕年近百岁,撒拉也早已断了生育的可能,可谓绝望般的境地。尽管如此,亚伯拉罕仍然抓住了神的应许。张大卫牧师认为,这可以视为“对复活信心的先行预表”。正如罗马书4章17~19节所说,亚伯拉罕在“无可指望的时候仍然存着指望而信”,最终撒拉怀孕并生下应许之子以撒,后裔果然多如天星、海边沙。保罗借此说明:“神能使无变有、使死人复活”,亚伯拉罕的经历正好证明了这一点。 不仅如此,亚伯拉罕在接受“献上以撒为祭物”这一命令时,仍然笃信“神必自有预备”。创世记第22章的记述,表明亚伯拉罕深信“即使面对死亡,神也能转化为生命”的绝对能力。罗马书4章20节以后描述“他丝毫没有因不信而怀疑神的应许,反倒因信心更加坚固,将荣耀归给神”,突出亚伯拉罕并没有用理性或知识去衡量神应许的可能性,而是全然地相信神的话语。张大卫牧师指出,亚伯拉罕这种毫无保留的信任,正是福音所说的信心(即对神的爱和救恩应许的积极领受)的典范。 其次,大卫的例子表现在诗篇32篇的宣告:“得赦免其罪、过犯被遮盖的人有福了。”虽然大卫曾犯下与拔示巴行淫、将乌利亚置于死地的大罪,但当先知拿单责备他时,他悔改了,于是就蒙了神的饶恕。按律法来说,大卫应当被处死,因为奸淫和杀人都是重罪。然而神却遮盖了他的罪,让他成为“耶和华不算为有罪的人”。张大卫牧师指出,“从人的角度看,大卫理应无法逃脱惩罚,但神却为他遮罪并接纳了他,这说明在旧约时代也充分展现了神的恩典。” 旧约这两位属灵伟人都凭着“恩典”和“信心”而被称义,这恰恰是保罗的论证核心。若有人质疑:“外邦人没有律法,怎能得救?”保罗就会回答:“连亚伯拉罕也在律法之外、甚至还未受割礼时就已被称义;大卫同样经历了罪得赦免的恩典。如此说来,福音向犹太人和外邦人同时敞开,凭信得救,又有何不妥呢?”在张大卫牧师看来,保罗是“在对犹太历史与旧约神学有深刻洞察的基础上,同时又在基督里看见了新约真理”的使徒。他能最有力地重新诠释自己民族的历史,使之与耶稣基督的救恩接轨,带领所有族裔进入“向万民开放的救恩之路”。张大卫牧师也认为,从这个角度看,保罗不仅是一个神学理论家,更是把犹太民族的历史在基督里重新审视,并指引万民走向救恩的真牧者、真宣讲者。 因此,救恩并不会因血统而世袭传承。同样地,教会也不应该按“肉体”去传承,而应以“信心”去传递。张大卫牧师指出,今日教会若以世俗的权力、财富或家族方式来“世袭”教职,实际上正与罗马书4章所批判的问题无异。保罗在第4章13节以后说:“神应许亚伯拉罕和他后裔承受世界,并不是借着律法,而是借信心而得的义。”这就宣告,真属亚伯拉罕后裔的,不是那些以肉体或律法功劳为根据的人,而是“相信神的应许,并在那应许之中生活的人”。 Ⅲ. 借十字架与复活而成全的称义 张大卫牧师尤其聚焦在罗马书4章的末段(尤其是23~25节)。保罗在这里说:“神称亚伯拉罕为义,不仅是为亚伯拉罕个人,也是为了我们这些将来的人。”并指明原因在于:“我们这信神使我们的主耶稣从死人中复活的人,也要被算为义。”也就是说,张大卫牧师认为,保罗把旧约亚伯拉罕的经历当作预表,进而联系到新约耶稣基督的死与复活。亚伯拉罕曾相信“在像死胎一样的撒拉身上会产生生命”的复活性奇迹;同样地,在新约里,耶稣基督被钉死又从死里复活,也把同样的永生与义赐给我们。 接下来保罗写道:“耶稣被交给人,是为我们的过犯;复活,是为叫我们称义。”(罗马书4章25节)张大卫牧师称之为“代赎的死亡,以及通过复活来加以确证”。耶稣替罪人担当刑罚,既彰显了“神的公义”,也体现了“神的慈爱”。因此人才能在神的法庭上得“无罪判决”,即称义。但这并非终结,接着的复活显明了这救赎之工的完全,以及耶稣连死亡都已胜过。张大卫牧师指出,如果没有复活,并不意味着耶稣的代赎不具能力;只是通过复活,这救恩的大功在世人面前更加清晰地确立起来,使信徒可以切实参与复活的生命,享有明确的自由与荣耀。 十字架象征“罪得赦免”,复活则象征“新生命”。张大卫牧师认为,这是保罗神学关于救恩的两大支柱。保罗在罗马书第4章中,先透过回顾旧约亚伯拉罕与大卫的见证,说明神的恩典怎样历史性地运行,然后宣告这一切在耶稣基督的死与复活之中已得以完全成就,并且向万国万民敞开。“我们因过犯得罪神,耶稣替我们受死;但他的死并没有结束,他还从死里复活,彰显了救赎的完满。”张大卫牧师补充说,保罗有时称之为“代表理论”——如果亚当作为全人类的代表,把罪带给世界,那么耶稣作为新人类的代表,就替人类付清罪债,并把他的义转加给我们。 这“双重归算”或“伟大交换”的思想,就是“我们的罪归在耶稣身上,而耶稣的义加给我们”这一震撼人心的福音本质。张大卫牧师强调:“若我们真能从心里接受这交换的真实,就能确知自己已完全脱离律法的咒诅,并在每天的生活中经历复活的生命大能。”如此一来,教会群体也不会再依赖律法规定、血统传统或人的功德与荣耀,而是单单夸耀耶稣基督的十字架与复活,承认所有信徒都同蒙这恩典,在此宣告上合一。 简而言之,张大卫牧师总结,罗马书第4章说明了“藉着亚伯拉罕的信心和大卫的悔改经历,让我们看到在律法时代就已显明了‘恩典和信心的救赎原则’,并通过耶稣基督的十字架与复活使之圆满完成的神圣救赎计划”。这既是保罗所要传达的中心信息,也是整个基督教福音的核心之一。律法带来知罪与人的无力感,基督的死与复活则完全解决了罪的问题,并赐给我们“称义”的身份。更美好的是,我们还藉着对基督复活的信心,与他同得“复活的生命”。正如亚伯拉罕在毫无指望的情况下仍存盼望一样,今天的新约信徒也因基督已胜过死亡并复活,而得以凭信称义,并最终获得复活的生命。 因此,张大卫牧师向当今教会提出几点需要从罗马书第4章省思的地方。第一,信仰的本质不是遵守律法,而是凭信心领受恩典。第二,旧约的圣徒也早已体验了这个原则,彰显了旧约与新约的连续性,而非割裂。第三,耶稣基督的十字架是罪得赦免的完成,复活则是称义的确证与新生命的开端。第四,“信心”意味着在毫无指望的处境中仍紧紧抓住神的应许;那时神的能力就会显现。最后,基于这种信心所形成的救恩群体,绝不夸耀个人的功劳、血统、地位或人的权威,而只高举神的恩典。保罗的教导,对于容易陷入律法主义的教会,或轻忽律法、忽略福音责任的群体,都是极为重要且必须遵守的真理。 最后,张大卫牧师指出,罗马书4章25节可谓最能高度概括救恩信息的经文:“耶稣被交给人,是为我们的过犯;复活,是为叫我们称义。”此话凝聚了十字架与复活、罪的赦免与称义等所有核心神学要点。人无法自行偿还的罪债,全由耶稣基督替我们承担;而复活则证明了这代赎之工完全无缺。信心就是接受这爱的邀约,正如亚伯拉罕曾为神的应许舍弃一切,我们也应当完全相信复活的耶稣,放下自我中心的生活,天天活在十字架的恩典与复活的大能之中。张大卫牧师反复强调,这才是基督教信仰的精髓,也是保罗借罗马书第4章向犹太人和外邦人,以及历世历代所有民族所传递的永恒福音。 罗马书第4章所要阐明的,正是“并非出于人的功劳,而是完全因着恩典和信心而得的救恩,自旧约时代便已彰显,并在基督的十字架与复活中达到巅峰”。这份信息,对于历代的圣徒与今日教会,依然具有同等的价值与重要性。在此,我们再次强调这一要点:这段关于罗马书第4章的大脉络,正提醒每一个时代的基督徒和教会,唯有紧紧把握“因信称义”这永不改变的真理,才能真正走在神的恩典之路上。

救いの道 – 張ダビデ牧師

Ⅰ.律法と福音の関係、そして信仰によって開かれる恵みの世界 張ダビデ牧師はローマ書4章を解説するにあたり、まずローマ書3章31節に注目すべきだと強調する。そこではパウロが「では、私たちは信仰によって律法を廃するのか。絶対にそんなことはない」と語っているが、これは律法と福音の関係に関する論争を解決するための前提だというのである。福音によって律法が完全に無意味になるのではなく、むしろ福音こそが律法を「成就」し「完成」するという理解があってこそ、ローマ書4章全体を明確に捉えることができる。張ダビデ牧師によれば、パウロはこの点をはっきりさせるために苦心しているという。もし律法を一つの小さな三角形にたとえるなら、福音はその小さな三角形を包含する大きな三角形であり、律法が小さな円であるなら、福音はその円を包み込む大きな円であるとも言える。つまり、律法が決して無効化されたのではなく、より大きな恵みの枠組みの中でその本質的な意味が完成される、というのが福音の概念なのだ。 このように福音が律法を包括するという視点から見ると、旧約と新約もまた、神の恵みを示す救いの二つの形態として理解されるべきだと張ダビデ牧師は強調する。旧約においてもすでに「信仰」による救いや神の恵みによる出来事が継続的に記録されており、同じ神が旧約と新約を通して一貫して働かれたという事実を見落としてはならないというのである。パウロもこの問題を説明するためにローマ書4章でアブラハムとダビデを例に挙げている。しかし多くの人がローマ書を講解する際、4章を軽く扱いがちで、あるいは「これはユダヤ人向けの章だ」とみなし、5章へ飛び越えてしまうことが多いという。だが張ダビデ牧師は、パウロがどうしてこれほど長く、しかもまとまった一章を割いてアブラハムとダビデ、さらに割礼と律法の問題を取り上げるのか、その理由を考察すべきだと指摘する。そこには同胞であるユダヤ人に対するパウロの切実な思いと情熱があり、彼らが律法と恵みの福音を誤解している現実を何とか解きほぐしたいという文脈を読み取る必要があるというのだ。 さらに張ダビデ牧師が特に注目するのは、ユダヤ人の間に「福音を受け入れたら律法は廃止されるのではないか」という誤解があったことだ。しかしパウロは、律法と福音が互いに矛盾するものではないと強調する。むしろ律法が持っている目的が完成する瞬間に、恵みの福音が完全な意味をもって現れるのだ、と教えている。福音は律法を排除するのではなく、律法の本来の目的(罪を自覚させ、人間が神の義に到達できないことを明らかにし、最終的にキリストへと導く手引きとなる点)を完全に果たしてくれる。したがって「信仰によって義と認められる」という教えは、新約で突然登場したものではなく、旧約でも一貫して示されてきた神の救いの方法だったのである。ローマ書4章はまさにその点を強く際立たせている。 ユダヤ人の歴史において非常に重要な二人の人物こそアブラハムとダビデだ。張ダビデ牧師によれば、パウロがこの二人を取り上げたのは実に巧みな選択だという。アブラハムは血統的にも信仰的にもユダヤ人の「父」のような存在であり、ダビデはイスラエル史の頂点といえる王権の代表であり、メシアの予表とされる人物である。ルカの福音書16章には「ラザロが死んでアブラハムのふところに入った」というたとえ話があるが、それほどユダヤ人はアブラハムを絶対的に尊い祖先とみなしていた。一方ダビデは詩篇の多くを記し、イエス・キリストの王権的血統を示す存在だった。マタイの福音書1章1節でも「アブラハムとダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と述べ、アブラハムとダビデを系譜の基準点にしている。最終的に、パウロがローマ書4章でアブラハム(4章13節、9〜12節)とダビデ(4章6〜8節)を挙げる構造は、「ユダヤ人にとって最も権威のある二大巨人を通して福音の真理を説明する」方法だ、と張ダビデ牧師は述べる。 パウロが提示する問いはこうである。「アブラハムとダビデは、いかにして神の前に選ばれ、義とされたのか?」 その答えは、ひとえに神の恵みと信仰によるものだということだ。これは福音によって突然もたらされた新しいパラダイムではなく、旧約時代から継続してきた同一の神の救いのわざだと、パウロは証明しているのだ。張ダビデ牧師によれば、パウロの論理はこうだ。「もし律法以前にすでにアブラハムが信仰によって義と認められ、さらにダビデが自らの罪を悔い、『罪が赦された者は幸いだ』と詩篇に記したのなら、それこそ福音の土台ではないか」というわけである。 まずローマ書4章1〜3節ではアブラハムの例が強調される。パウロは「アブラハムは肉によって誇ることがなかった」と言うが、それは彼が偶像を売るテラの息子であったこと、血統的にも人間的資格から見ても神の前に誇れるものなど何もなかったことを想起させる。張ダビデ牧師はこれこそ「人間は本質的に罪人であり、神の恵みなしには救いを得られない存在である」ことを強く示す記述だと解説する。実際、創世記12章でアブラハムが故郷と親族、父の家を離れて神の命令に従ったのは、彼の功績が認められたわけではなく、ただ神を信じる「信仰の行為」に過ぎなかったのだ。ゆえに聖書が「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(創世記15章6節)と記すことは、律法以前の時代にもすでに「恵みによる義」が働いていたことを示す結論へとつながる。 さらに張ダビデ牧師は、「働く者には報酬が恵みではなく当然の賃金とみなされるが、働いていないのに神から義と認められた者こそ本当に幸いな者だ、とパウロは繰り返し強調している」と付け加える。これはマタイの福音書20章のぶどう園の労働者のたとえ話や、マタイの福音書9章で取税人マタイがイエスの弟子となる話にもよく表れている。早くから律法を守り自らを正しいとみなしていた人々(パリサイ人)は、結局「神の全面的な恵み」を実感できずにむしろ反発したが、罪人である取税人が悔い改めた瞬間、神の恵みがその人に注がれるという逆説的真理がここに込められているのだ。張ダビデ牧師によれば、こうした物語を通して、パウロは「行いによる功績信仰」の危険性と、「恵みによる救い」の幸いを強調しているのだという。 ここでもう一歩踏み込むと、詩篇32篇に出てくるダビデの告白が登場する(ローマ書4章6〜8節)。ダビデはバト・シェバを奪い、ウリヤを殺すという悪行を犯したにもかかわらず、悔い改めるや神は彼の罪を覆ってくださった。「咎を赦され、罪を覆われた者は幸いだ」と宣言できたのは、ダビデ自身が正しかったからではなく、ただ神の愛と恵みによって罪が覆われたからである。パウロはこの詩篇32篇の言葉を引用して「ダビデもまたすでにこの恵みを体験した者ではないか。律法や旧約の礼拝規定を守ることを超えて、罪を告白して神の赦しを受けるという出来事こそ福音が示す本質なのだと、あなたがたユダヤ人自身も知っているではないか」と語りかけているのだ。 さらにアブラハムが義と認められた決定的時点は、彼が割礼を受けた後(99歳のとき)ではなく、すでに割礼を受ける前(およそ75歳頃)のことだった。張ダビデ牧師によれば、これは割礼を「救いの前提」であるかのように考えていたユダヤ人の思考を覆す決定的メッセージだという。アブラハムが信仰の祖となったのは、血統や肉的な功績、あるいは儀式によるのではなく、純粋に信仰によって神から義とみなされた結果だったのだ。ゆえにパウロはローマ書4章を通して、救いは決して律法的な功績や血統的優位によるのではなく、イエス・キリストを通して与えられる神の恵みと、それを受け入れる信仰によるのだと、ユダヤ人たち(そして現代の私たちにも)強く主張する。張ダビデ牧師は、これこそがパウロの核心的な論理であり、パウロが長年ユダヤ文化圏で培った律法の知識とメシア的信仰体験とが一体となった精緻な教えなのだと付言している。 結局、律法は罪を明らかにし、罪人である人間が神の義の前にけっして立てないことを悟らせる装置である。しかし福音は、その罪責と重荷をイエス・キリストの十字架と復活によって背負わせることで、私たちに「値なしに与えられる義」を賜物としてもたらす。パウロが「律法は怒りをもたらすものです。律法のないところには罪の違反もありません」(ローマ書4章15節)と言うのも、そうした文脈なのだ。張ダビデ牧師は、律法が罪をいっそう自覚させ、人間の実存をその重い命令の下に縛りつけるがゆえに「呪い」と「罪の宣告」を免れ得ないのだが、イエス・キリストがそれを代わりに背負ってくださったとき、はじめて私たちは自由を得られるのだ、という点を明確に捉えるべきだと解説する。したがってパウロはローマ書4章を通して一貫して律法と福音の関係を解き明かし、最終的には「信仰による義」こそすべての人に開かれた恵みの道なのだと提示しているのだ。 Ⅱ.アブラハムとダビデが示した信仰:張ダビデ牧師が見つめる旧約の「恵み」の証拠 張ダビデ牧師は、ローマ書4章が単に神学的な概念を羅列しているのではなく、旧約の二大代表的人物であるアブラハムとダビデを通して「神の恵みがすでに歴史的に働いてきた証拠」を明らかにする章だと語る。イスラエルの民が最も崇敬し尊敬する祖先であるアブラハムと、最も輝かしい王であるダビデ。彼ら二人がそろって行いではなく信仰によって義と認められたという事実こそ、旧約と新約を結ぶ核心的な教えなのだ。 まずアブラハムに見る信仰の核心は、「死者を生かされる神への確信」であると要約できる。創世記15章で神はアブラハムに「あなたの子孫を星のように数多くする」と約束されたが、現実的にはアブラハムは百歳近く、妻サラもすでに生理が止まり、子を宿すことは不可能という絶望的な状況だった。しかしアブラハムはなお神の約束を握り続け、張ダビデ牧師はこれを「復活の信仰の先取り」と見ることができると解説する。ローマ書4章17〜19節にもあるように、アブラハムは「望み得ない時に望みを抱いて信じた」。結果としてサラは懐妊し、信仰の子イサクを生み、その後天の星や海辺の砂のように数多くの子孫が繁栄した。パウロはこれを指して「神は無いものをあるもののように呼び、死者を生かされる方」であることが示された例だと言及するのである。 さらにアブラハムはイサクをいけにえとして捧げよとの命令を受けたときでさえ、「神ご自身が備えてくださるだろう」という信仰を示した。創世記22章の物語は、結局アブラハムが「死さえも命へと変えられる神の絶対的な力」を信じていたという強い告白である。ローマ書4章20節以下に「彼は信仰が弱くならず、むしろ堅固となって神に栄光を帰した」と描写されるように、アブラハムは知識や合理的思考で考えると不可能に思える状況でも、神の言葉にのみすがった。張ダビデ牧師は、この全面的な神への信頼こそ、福音が語る信仰(神の愛と救いの約束を積極的に受け入れる態度)の原型だと説明する。 次にダビデの例が挙げられるが、張ダビデ牧師はダビデが詩篇32篇で「咎を赦され、自分の罪を覆われた者は幸いだ」と歌っている部分に注目する。ダビデはバト・シェバの件で致命的な罪を犯したにもかかわらず、ナタン預言者の戒めを聞いて悔い改めることで命を救われた。これはまったく神の赦しのおかげであった。律法の定めに従えば、ダビデは間違いなく死刑に値する(姦淫と殺人という重大な罪だから)はずだった。にもかかわらず、神が彼を赦し、ダビデの罪を覆ってくださったのだ。張ダビデ牧師は「人間の観点からすれば刑罰を免れる術はなかったにもかかわらず、神が罪を覆ってダビデを受け入れられたのは、旧約にもすでに十分な恵みが作用していたことを示す出来事だ」と解釈する。 このように、旧約の二人の霊的巨人がいずれも「恵み」と「信仰」を通して義と認められた事例こそ、パウロの論証の要である。だからこそユダヤ人が「異邦人は律法なしでどうやって救われるのか?」と問い返すとき、パウロは「アブラハムでさえ律法なしに、しかも割礼を受ける前にすでに義と認められたではないか。ダビデも同様に罪の赦しの恵みを経験した。であれば、福音がユダヤ人にも異邦人にも同じく『信仰』によって開かれるのは、何ら不思議なことではないではないか」と答えるのだ。張ダビデ牧師は、この点で「パウロこそユダヤの歴史と旧約神学を最も深く理解した使徒でありながら、同時にキリストにあって与えられる新しい契約を最も説得力をもって説き明かす神学者でもあった」と評価する。その観点から見ると、張ダビデ牧師がとらえるパウロ像は、単に神学的概念の論争をする人ではなく、自らの民族が経験してきた歴史をイエス・キリストにあって再解釈し、「すべての民族に開かれた救いの道」へ導こうとする、真の牧会者であり説教者としての姿が際立つというのだ。 結局、救いは血統によって世襲されるものではない。教会もまた「肉によって」ではなく「信仰によって」次世代へ受け継がれるべきである。張ダビデ牧師は、今日の教会が世の権力や富、家柄が世襲されるように、信仰の職分を世襲しようとするなら、それはまさにローマ書4章が指摘する問題と変わらないと指摘する。パウロが4章13節以下で「アブラハムとその子孫への約束は、律法を通してではなく、信仰の義によって与えられた」と語るのは、決して肉的基準や律法的功績ではなく、「神が約束されたことを信じ、その約束の内に生きる者」こそが真のアブラハムの子孫なのだ、と宣言しているのにほかならない。 Ⅲ.十字架と復活によって完成される称義 張ダビデ牧師は、ローマ書4章の最後の部分(特に4章23〜25節)に焦点を合わせる。ここでパウロは「アブラハムが義と認められたという事実は、アブラハム一人だけのためではなく、私たちすべてのためでもある」と宣言する。そしてその根拠として「私たちの主イエスを死者の中から甦らせた方を信じる私たちにも、同じように義と認められる」と語るのである。つまり張ダビデ牧師によれば、パウロは旧約のアブラハムの出来事を雛形として、新約のイエス・キリストの死と復活を結びつけていることがわかる。アブラハムが「死んだも同然のサラの胎から命が生まれる」という「復活的奇跡」を信じたように、新約時代においてはイエスが死なれ、そして復活されることで、私たちにも同じように永遠の命と義が与えられるのだという。 さらにパウロは「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた」(ローマ書4章25節)と続ける。張ダビデ牧師は、これを「代償的な死と、その死を確証する復活」とまとめる。罪人が犯した罪に対する刑罰をイエスが代わりに負われることは、「神の正義」と「神の愛」を同時に満たす出来事だ。これによって人間は法廷で無罪判決、すなわち称義を得る。しかしそれだけで終わらず、復活によってその贖いのわざが完全であることが示され、イエスが死をも打ち破られた方であることが証明される。張ダビデ牧師は、復活がなかったとしてもイエスの代償の死の力が少しも損なわれるわけではないが、復活によって救いの完成が世に明確に示され、信じる者はその復活の命にあずかることで、はっきりとした自由と栄光に至るのだと語る。 すなわち十字架は「罪の赦し」を意味し、復活は「新しい命」を意味する。張ダビデ牧師は、これこそ救いに関するパウロ神学の二大柱だと考えている。パウロがローマ書4章を通して証言しようとしたのはまさにこれである。旧約におけるアブラハムとダビデの出来事を通して、神の恵みがどのように働いてきたかを説明し、それがイエス・キリストの死と復活という出来事を通してすべての民族に完全に開かれたと宣言するのだ。「私たちは罪のためにイエスが引き渡された」というのは、本来罪人が処罰されるはずの場所にイエスが身代わりとして入られたことを意味する。パウロはこれをしばしば「代表の理論」と呼んでいると、張ダビデ牧師は補足する。アダムがすべての人類の代表となって罪を広めたのなら、イエスこそが新しい人類の代表となって罪の代価を支払い、義を転嫁(インプット)してくださるお方なのだ。 このような「二重の転嫁」あるいは「壮大な交換」の思想は、私たちのすべての罪がイエスに移され、イエスの義が私たちに与えられるという驚くべき福音の本質である。張ダビデ牧師は「もし私たちがこの交換の現実を本当に心から受け入れるなら、律法の呪いから完全に解放されたと確信できるだけでなく、日々復活のいのちの力を体験できるようになる」と語る。それだけでなく、教会共同体においても律法的規定や血統的伝統、人間的功績や誇りを打ち立てるのではなく、ただイエス・キリストの十字架と復活を誇り、すべての聖徒が同じ恵みに浴しているとの告白の上に一つとなることができるのだ。 要するに、張ダビデ牧師はローマ書4章を「アブラハムの信仰とダビデの悔い改めの経験を通して、律法時代にもすでに恵みと信仰による救いの原理が働いており、それをイエス・キリストの十字架と復活によって完全に成就された神の救いのご計画を宣言する章」と要約する。それはパウロの本論であると同時に、キリスト教福音の核心の一つでもある。律法は罪を自覚させ、人間の無力さを宣言するが、キリストの死と復活はその罪を完全に解決して私たちに義の身分を授ける。そしてキリストの栄光の復活にあずかる道こそ「信仰」である。アブラハムが望み得ない状況でなお望みを抱いて信じたように、新約の時代を生きる私たちも、イエスが死に打ち勝って甦られた事実を信じることによって義と認められ、ついには復活の命をも得るという結論である。 ゆえに張ダビデ牧師は、今日の教会がローマ書4章を通して学ぶべき教訓をいくつか挙げている。第一に、信仰の本質は律法の遵守ではなく「恵みを信仰によって受け入れる」ことである。第二に、旧約の聖徒たちもすでにこの原理を体験していたという点で、旧約と新約は断絶ではなく連続性をもつ。第三に、イエス・キリストの十字架は罪の赦しの完成であり、復活は称義の確証であり、新しい命の出発点である。第四に、「信仰」とは望み得ない状況でも神の約束にすがる態度であり、その時にこそ神の力が現れる。最後に、このような信仰に基づく救いの共同体は、個人の功績や血統、地位、人間的権威ではなく、ただ神の恵みを高く掲げる。これこそパウロの教えであり、律法主義に陥りやすい教会や、逆に律法を軽視して福音の責任を忘れがちな共同体の双方が必ず押さえなければならない重要な真理なのだ。 最後に張ダビデ牧師は、ローマ書4章25節こそが救いのメッセージを劇的に要約した本文だと語る。「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた。」ここには十字架と復活、罪の赦しと称義、そのすべての核心神学が集約されている。人間が自力では贖いきれない罪の代価をイエスが引き受け、その贖いのみわざが完全であることを示す証しが復活である。信仰とはまさにその愛の招きを受け入れることであり、アブラハムが命がけで神の約束に従ったように、私たちも甦られたイエスを心から信頼し、自分中心の生き方を捨て、日々十字架の恵みと復活の力の中を歩むことである。張ダビデ牧師は、これこそキリスト教信仰の真髄であり、またローマ書4章を通してパウロがユダヤ人と異邦人を問わず、あらゆる時代・あらゆる民族に伝えようとした永遠の福音だと重ねて強調する。 ローマ書4章が語るところ、すなわち「人間の功績ではなく、全面的な恵みと信仰による救い」が旧約時代から連続しており、その頂点がキリストの十字架と復活によって完成されたというのが、本稿の要旨である。ローマ書4章のこの大きな流れは、すべての時代の信徒、そして現代の教会にもなお有効であり、重要な真理として適用され得ることを最後に強調したい。

구원의 길 – 장재형(장다윗)목사

Ⅰ. 율법과 복음의 관계, 그리고 믿음으로 열리는 은혜의 세계 장재형목사는 로마서 4장을 해설하기에 앞서, 로마서 3장 31절을 주목해야 한다고 강조한다. 바울이 “믿음으로 말미암아 율법을 파기하느냐? 그럴 수 없느니라”라고 말할 때, 이는 율법과 복음의 관계에 대한 논쟁을 해소하기 위한 전제라는 것이다. 복음으로 인해 율법이 완전히 무의미해지는 것이 아니라, 오히려 복음이 율법을 ‘성취’하고 ‘완성’한다는 이해가 바탕이 되어야 … Read more

保罗的基督论——张大卫牧师

福音的绝对性与张大卫牧师的事工 从《歌罗西书》第2章第1节开始,保罗对教会的教导便展现出特别的意义:他身陷囹圄,却写信给歌罗西教会和老底嘉教会,而这两间教会既不是由他亲手所建,也从未与他有过面对面的接触。保罗之所以执笔写信,自有明确的缘由:当他得知歌罗西教会受诺斯替主义(영지주의)和幻影说(가현설)等假教义的影响而陷入动摇时,虽素未谋面,仍对他们充满爱心和牧养的热忱。细读此信,人们能体会到保罗对教会的深情,以及他不愿任由教会被假教义所侵蚀的坚定态度。直至今日,教会仍在面对各种世俗主义与扭曲哲学的冲击,而《歌罗西书》对21世纪教会依旧意义非凡:应坚守福音,在基督里毫不动摇。保罗那句“只有在耶稣基督里才蕴藏着一切智慧和知识的宝藏”的宣告,跨越时代,成为宝贵且重要的提醒。 张大卫牧师将保罗的教导与当代教会的实际处境相结合,以更具体、可行的方式呈现。他留意到教会在“给福音掺水的人”和“异端假思想”面前易受动摇的现象,因此常常在讲台上反复解读这封保罗于狱中写给歌罗西教会的书信。他多次强调:基督论是教义的核心,若对“耶稣基督是谁”没有清晰的认识,其他教导必然缺乏根基。他也警告那些歪曲耶稣神性与人性的异端,或试图将基督的救赎之工一分为二、减损其完备性的社会声浪,皆与保罗当年驳斥幻影说时的宣言背道而驰:“基督并不是幻影;祂不是只以灵的形式存在,而是真真切切地取了肉身。”这正是保罗最核心的论证,如今也同样迫切需要被大声重申。 保罗的基督论:福音绝对性的明证 《歌罗西书》第1章的核心主题,正是保罗的基督论,也即“耶稣基督究竟是谁”这一关键问题的有力回应。保罗宣告耶稣是创造万有的主、教会的头,并且超越一切的上帝。通过对祂神性的坚定告白,教会便能在世俗浪潮和种种谬误中稳固根基。张大卫牧师将此视为“福音绝对性”的明证:福音本身无需任何人的自我辩护,已然满有满足,并使我们在其中得着完全。人越深入认识基督,就越能发现唯有这福音才是真正通往丰富之路。因此,他常嘱咐教会和信徒要不断宣告“主是我的满足”。 同时,这封出自狱中的书信也具有特殊意义。保罗被囚罗马,虽与信徒分隔,却说“我身体虽与你们分离,但心灵却与你们同在”,由此见证教会在灵里所拥有的合一感。张大卫牧师指出,这正是教会的精髓:无论时代怎样变迁,教会能屹立不倒,靠的就是彼此相属与同在的力量。即便没有宏伟建筑与充足财力,或是遭受逼迫与患难,教会依旧是教会,因为她拥有“耶稣基督的福音”和“信徒间属灵的相连”。这亦是张大卫牧师事工的基石。他向被派往信仰自由受限地区的宣教士,或在美国各地拓荒事工的人们不断传递这样的信息:“我们虽分离,却仍在一起。”如今,张大卫牧师所领导的群体正广泛分布美国,兴建多处中心和分支,带领众人体验“定居之地”。在这片广袤的土地上,他们陆续建起各类事工总部、敬拜场所与自立型商业中心。与此同时,他也反复强调,这一切“空间的扩张”只是为了彰显教会本质的扩展,也就是体现“福音的绝对性”。若离开福音,只剩下机构和企业的外壳,便失去了属灵的核心内涵。 保罗所强调的基督至高无上,以及在祂里所得的真丰盛,正是今日教会亟须回归的讯息。当时,诺斯替主义者主张需将耶稣与其他哲学和神秘知识相结合,才能称得上“完整”,从而玷污了福音的纯正。现今的世俗主义在本质上相差无几:对物质与个人主义的过度追捧,加之对圣经真理或盲目崇拜、或随意忽视的极端倾向,都在削弱教会并造成混乱。现实里,人们往往为生计与工作疲于奔命;在科技高速进步的时代,信仰常被视作过时。对此,张大卫牧师借着无数次的礼拜、宣讲与培育事工,努力弥合这道裂痕。他指出,正如保罗在狱中仍对教会满怀热忱一样,教会所领受的使命也当在任何环境下发光。唯有毫不妥协地传讲福音,高声宣告“耶稣基督是谁”,才能使教会无惧世人的讥笑与质疑,而稳如磐石。这便是“福音的绝对性”,也是张大卫牧师信息的核心脉络。 向动摇的教会传递的心意 保罗的书信中蕴含了一颗“扶持动摇中教会”的强烈心愿。作为外邦宣教的核心使徒,他走遍各地,却始终惦记那些所建或所闻的教会。《歌罗西书》告诉我们,保罗从未亲手建立歌罗西教会,也不曾见过其中信徒,但当他听闻诺斯替主义与幻影说等假教义正迷惑着教会时,便在第1至第2章中系统奠定基督论,强调耶稣神性与人性的不可动摇,以及我们如何能在基督里得着完全。 张大卫牧师对这一点尤为看重:保罗虽从未见过歌罗西教会,却依然说“我为那些从未见过我面容的人祈祷”。这说明教会何其宝贵,也为我们树立榜样:当教会整体遭遇动摇时,信徒当有何等姿态。既然教会是一体,理应超越地域边界,彼此扶持,并且用福音互相提醒。对当今教会而言,这种同心合一的实践更显迫切。 实际上,张大卫牧师在许多地方拓展事工,并经由多重途径邀请、培训众人。他在多佛(Dover)商务中心、Mount Olivet、ANC、WOA等据点为不同语言群体提供聚集与培训场所,让福音广为传播。这类跨越大陆的宣教策略,与约翰·卫斯理那句“全世界就是我的教区”有异曲同工之妙。当然,过程并不总是一帆风顺。例如,某块土地签约差点被取消,或者房东拒绝在六个月内搬离,使谈判陷入僵局。但在他看来,这些困难不仅仅是行政流程或财务问题,更是“教会扩张”必经的属灵旅程。 为了扶持受动摇的教会,从选址建堂到经费筹措,始终贯穿同一信念:“我们要借着主的教会完成世界宣教,教会乃在神荣耀的作为中,不可动摇。”正如保罗说:“我虽不在你们中间,心灵却与你们同在”,教会如同一个家庭,是身心紧密相连的有机体。张大卫牧师在各类祷告会(如Shepherd Meeting)中一再强调:要一起敬拜、祷告,并记念神如何一路带领。他也帮助分布在北美、南美、亚洲、欧洲等地的教会群体,让它们始终持守一致的价值观。 若要真正扶持动摇的教会,福音必须在核心处被正确、完整地传扬。保罗在《歌罗西书》中屡次说明,若认为要用其他哲学或知识来“补足”基督,便会动摇基督绝对的主权。诺斯替主义者号称“福音不完全,还需引入世俗学识与哲学”,幻影说则坚持“耶稣只是灵,并未真正取肉身”。这些看似高深莫测,实则大大破坏基督的救赎能力,弱化十字架与复活的大能。直到今日也是如此:不论学术、哲学、文化、艺术如何发达,若其立基于人本主义或世俗主义,都容纳不下耶稣基督的全能与道成肉身的奥秘。因此教会必须时刻保持警醒,防止福音被稀释或篡改。 对此,张大卫牧师常提醒:“任何宏大的叙事或巧言的辩才,都取代不了真福音。”诚然,教会需要资金、场所和商业项目,但这些都必须立基于福音。只有当我们先前往那动摇的教会,先去为他们祷告并扶持,方是教会真实的使命。牧者照顾信徒,也必须紧抓这一核心。倘若教会只追求人数或财务增长,却背离福音根本,就与保罗对歌罗西教会宣告的真理相悖:当保罗说“在基督里隐藏着一切智慧和知识的宝藏”时,实际上教会已经拥有真正的丰盛。即便外在看似贫乏,信徒在基督里早已得着神圣的富足。只要扎根于此真理,任何风浪都不足以摧毁教会。 也如同保罗身陷罗马牢狱,却依旧关怀各处教会的灵魂,张大卫牧师对福音所需之地也是义无反顾地奔赴。他的事工据点已从美国拓展到巴西、墨西哥,乃至中东地区。初入伊斯兰世界时便有人发出死亡威胁,但他并不畏惧:“主所赐的使命,必能越过这道墙。”这份自信与保罗“在狱中仍不放弃”的姿态十分相似,都源自“扶持动摇中教会”的赤忱,也正是教会应对各种挑战时的动力。 丰富的基督论与圣诞节的意义 《歌罗西书》第1章的主要命题即保罗的基督论,他借此牢牢扶住了歌罗西教会。“耶稣是谁?”只要能确切回答这一点,教会就没有理由动摇。纵然世俗的哲学与知识层出不穷,只要教会坚信耶稣基督的完备与神性,并相信祂真实的十字架与复活,便不会倒塌。张大卫牧师称基督论为教会教义的“关键之关键”,因为对耶稣神性与人性的错误理解,足以使基督信仰迅速堕落为世俗的宗教或单纯的道德运动。 进入12月,教会常借圣诞节来默想、纪念耶稣基督的降生——这是“神为拯救人类所付出的爱”的体现。教会传统透过那马槽里的王,看见祂的谦卑与卑微,也看见祂终至十字架的舍命之爱。正如保罗在《腓立比书》第2章所言,耶稣本与神同等,却虚己取了奴仆形象,顺服至死。道成肉身的奥秘,昭示着纵使世界被黑暗笼罩,因着这位降临的主,救恩的光依旧能够照耀。 张大卫牧师进一步强调,圣诞节不只是对“婴孩耶稣”那段温暖故事的纪念,更是见证“神的奥秘——基督”真真实实取了肉身。圣诞节宣告了“在天上荣耀、在地上平安”的客观事实,是上帝荣耀亲临人世的历史时刻。若否定了道成肉身,就易陷入将耶稣视为“幻影”的偏颇,这正是诺斯替主义“灵为善、肉体无价值”的二元论延伸。然而《约翰福音》1章14节宣告:“道成了肉身,住在我们中间……充满了恩典和真理”,这与保罗在基督论中的主张完全一致。 因此,在预备圣诞节的过程中,教会和信徒不仅要颂赞这道成肉身的奥秘,更要思考它如何在我们现实生活中落地。张大卫牧师借着广泛的事工、广阔的场地与多方群体的协作,诠释了“道成肉身的生命”就是实实在在地走入现实、深入人群。正如神先来寻我们一般,教会也当去到这世间卑微、破碎与伤痛之处传福音。福音的绝对性并非高居云端:耶稣在《路加福音》中亲口宣告,祂来是要向贫穷的人传福音,这正是教会在世上被呼召去完成的使命。 此外,圣诞节也是教会向世人彰显喜乐的时机。保罗之所以喜乐,在于耶稣基督能充满万有。张大卫牧师特别强调《歌罗西书》第2章第3节:“在基督里隐藏着一切智慧和知识的宝藏。”教会真正的丰富在基督里,世人无法用任何标准去衡量。即便有人看似拥有诸多物质或知识,若不认识基督,灵魂终究空虚。而真正认识耶稣的教会,哪怕资源有限、场地狭小,并遭世人嘲弄,却因“已属神的国度”这一身份而坚定不移。因为我们在基督里得着万有,不再因缺乏而沮丧。 事实上,在张大卫牧师所在的群体里,通过各种事工帮助信徒们切身体验这份来自基督的丰富。除礼拜、宣讲、门徒培训、Shepherd Meeting(牧者聚会)等聚会外,还有自立型商业和多种社会服务,以同时满足人们的属灵与物质需求。以多佛商务中心为核心开展的各项事业与机构,目的并不在经济效益,而是藉此彰显基督徒的服事与关怀。正如他所言:“金钱只是神恩典的流通渠道。”只要企业或中心赚取的利润最终用于传扬福音、建造教会,金钱也能成为宣教的器皿。让教会真实地“进驻”这世界,正是道成肉身在日常生活中的最佳诠释。 所有这些都与圣诞节的内涵密切相连。“神爱世人,甚至将祂的独生子赐给他们。”(约3:16)因此,教会承担继续爱世界的使命。让世人敞开心扉,目睹教会,并在其中寻得盼望与喜乐,这就是“道成肉身之福音”的实践与延伸。保罗在《歌罗西书》第2章里宣告:“在基督里有一切丰盛”,这是不可动摇的真理。无论异端假教师如何煽动,只要教会守住“基督里隐藏着一切智慧与知识的宝藏”,便不会倾覆。 当圣诞节临近时,张大卫牧师常提“荣耀与平安”这几个字。正如天使所唱:“在至高之处荣耀归与神,在地上平安归与祂所喜悦的人。”这是上帝从至高之处降临卑微之地时,赐下的奇妙礼物,使堕落的人得以回转并享有救恩。当教会因这真理而欢喜,并承担向全世界宣告福音的使命时,福音之光就会继续向外扩展。实际上,张大卫牧师的事工足迹不仅遍布北美,也延伸至中南美、亚洲、欧洲以及中东。每逢圣诞节,他都会与各宣教地共同献上敬拜和感恩。即使当地环境如旷野般艰难,他也深信神必像当初赐吗哪、鹌鹑那样,供应所需。保罗在狱中仍毫不动摇地传扬福音,也正是这幅景象:无论环境如何险阻,教会始终是“享受基督丰盛”的群体。 张大卫牧师屡次提到,他之所以不断扩展事工,目标在于“教会要将神的福音彰显于世,满足人们灵性与物质的需要,并将荣耀最终归给神”。当他在多佛地区拓建商务中心,或在世界各地兴建据点时,人们不再只看到“盖房子”,更在其中体会“道成肉身”的内涵——神的道照亮人群聚集之处,教会真正在世间扎根,以基督的身体向人打开大门。即便过程中免不了财务与行政的坎坷,但在神的护理下,诸多片段正一点点拼合出整体图景。如此不仅带来物理空间的扩展,也让教会的属灵视野更加开阔。 12月里,教会在圣诞将至之际回首一年,怀着感恩心迎接新一年更大的事工。“我们纵然在至暗之境,也可用感恩和赞美来结束,并迎向新的神迹。”这是他常在讲道时给予的鼓励。保罗虽在监狱,却不灰心,反而带给教会感恩与盼望;清教徒们面对“半数人都死去,还怎么感恩”的景况,仍选择先向神献上敬拜。照此原则,人生无论经历多少波折,我们最终仍当以赞美与感恩来到主面前,这才是真正的“圣诞精神”。 三大信息:在基督里隐藏的一切宝藏 由此观之,《歌罗西书》所突显的基督论——耶稣是神的奥秘,并在祂里蕴含一切智慧与知识的宝藏——对现代教会和信徒有三大启示。其一,认识耶稣基督之深度乃是一切信仰生活的根基。其二,教会一旦遭逢假教义或世俗主义的冲击,就必须紧紧抓住保罗的基督论信念。其三,基督的道成肉身赋予教会走向世界、将福音付诸行动的关键动力。正因如此,圣诞节才弥足珍贵:它不仅是一段“婴孩耶稣”的温情故事,更宣告真救主确已降临世间。当我们立足于这坚实的根基,无论身处何境,都能宣告基督掌权,并在祂之内找到人生所有重担的真实意义。 张大卫牧师也常提醒:“你的人生绝不会乏味。只要在主里,你就会被带往更广阔的天地,并结出更丰硕的果实。”在他的事工场合里,人们常见年轻一代在营地和礼拜堂奔跑欢笑,海外宣教士也造访ANC或多佛中心,彼此分享多元文化。这种多世代、多文化的交融,展现出福音在不同处境、不同族群中所引发的喜乐,宛如道成肉身精神带来的一场盛大庆典。每当此景出现,便再次印证《歌罗西书》的主旨:“在基督里有一切的丰盛,绝不能被其他事物所取代。” 年末将至,教会也将筹备来年的事工,规划新一阶段的方向。张大卫牧师鼓励信徒此时回想《歌罗西书》第2章2-3节:“在基督里隐藏着智慧和知识的宝藏。”无论面临何种挑战,我们都已拥有这份宝藏,因此应勇敢尝试新的事工。完全可以怀抱“牧养全球200个国家,培养3000人、7000人甚至更多领袖,差派门徒,让当地教会扎根”的远大异象。这并非纸上谈兵,而是基于对基督里丰盛的笃信。哪怕教会规模再小、财力再不足,只要圣灵内住,便能得着胜过巨人的力量。 最后,张大卫牧师常以“奉耶稣基督之名祷告,阿们”作结,清晰表明他一切事工与异象的始与终,都系于主的名。福音是教会存在的缘由与目标,也是我们藉基督得着的救恩与生命。当教会守住这本质,便能在不被动摇的同时,不断拓展神的国度。 总而言之,张大卫牧师藉着诠释《歌罗西书》中保罗的基督论,在现代教会中鲜明地宣扬了“在主里不动摇”的信息。倘若教会放弃“福音完备、耶稣是独一王与救主、教会乃主的身体”这些核心信念,就会迅速沦为世俗主义与异端思想的猎物;但只要信念稳固,教会便能跨越地域、文化、政治的阻隔,广传生命之道,将道成肉身的基督之爱真实地彰显出来。正是在此时,我们回想保罗于《歌罗西书》中那句:“我虽身体不在你们那里,心灵却与你们同在。”此中蕴含的属灵连结与共同体意识,历经岁月依旧有效。尤其在圣诞佳节到来之际,《歌罗西书》第2章的教诲更应成为教会牢牢抓住的真理。张大卫牧师的事工与教导也会继续朝着这一方向前行,为当教会再度面临动摇时,指引我们回归福音根基。愿耶稣基督里那“充满一切丰盛、智慧与救恩”的真理,成为照亮教会未来与普世宣教之路的明灯。阿们。

パウロのキリスト論 ― 張ダビデ牧師

福音の絶対性と張ダビデ牧師の事奉 コロサイ書2章1節から始まるパウロの教えは、パウロ自身が開拓せず、一度も訪れたことのないコロサイ教会とラオデキヤ教会に宛てた獄中書簡という点で、特別な意味を持っています。この手紙には明確な目的がありました。当時、コロサイ教会がグノーシス主義や仮現説などの誤った教えに動揺しているとの知らせを受けたパウロは、彼らと実際に顔を合わせたことがなくても、愛と牧会的な熱意を惜しまず注ぎ続けようと決意したのです。実際、教会に注ぐパウロの愛と情熱、そして教会の揺らぎを支えようとする牧者としての強い思いは、この手紙を読むすべての人に深い挑戦を与えます。 現代でも、教会が世俗主義や歪められた思想によって揺さぶられ、さまざまな挑戦を受けている現場は数え切れません。21世紀の教会もまた、コロサイ書を通じて同じメッセージを耳にします。すなわち「福音を固く握り、決して揺れ動かないように」というパウロの切実な訴えです。そして「イエス・キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」というパウロの確信は、時代を超える価値ある指針となります。 張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えを現代の教会と社会情勢に合わせ、さらに具体的かつ実践的なかたちで提示してきました。彼は、教会が「福音を薄めようとする勢力」や「異端の虚偽思想」によって動揺している様子を注視しつつ、パウロがコロサイ教会に送ったこの獄中書簡を何度も説教の場で取り上げます。キリスト論が教理の中心中の中心であり、イエス・キリストとは何者なのかがしっかり定まっていなければ、他のすべての教えが揺らいでしまうと力説してきました。特にイエスの神性と人性を歪める異端の主張や、キリストの救いのわざを半端なものにしようとする世の声を見抜きながら、パウロが「キリストは仮現ではない。純粋に霊的存在ではなく、実際に肉体を取られたお方だ」と弁明した核心を、今こそ強調すべきだと説くのです。 コロサイ書1章に示される中心的テーマは、パウロのキリスト論、すなわち「イエス・キリストはいかなるお方なのか」という問いに対する圧倒的解答です。イエスこそ創造の主、教会のかしら、またすべてを超越する神であるという真実をパウロは強く訴え、イエスの神性に対する揺るぎない告白を示すことで、教会が世の虚偽や論理に足をすくわれないための堅固な根拠を築きました。張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えこそ「福音の絶対性」を示す証しだと語ります。この福音は人間のいかなる自己正当化も必要とせず、私たちのうちに満ち満ちた完全さをもたらします。キリストを深く知れば知るほど、福音が私たちを真に豊かにすることを体験するからです。そのため、張ダビデ牧師は「主はわたしの満足である」という告白が、教会やクリスチャンの唇から絶えず溢れ出なければならないと力を込めて説きます。 また、この手紙が獄中で書かれたという事実も見逃せません。ローマの牢に囚われ、身体的には教会員たちとともにいられなかったパウロは、「わたしは肉体では離れているが、霊ではあなたがたと共にいる」という表現を用いて、共同体がもつ霊的連帯の力を改めて示しました。張ダビデ牧師は、この連帯こそが教会の核心であり、いつの時代でも「共に在る」ことによって教会を支えてきた原動力だと語ります。たとえ建物に乏しく、財政が十分でなく、あるいは迫害や抑圧のただ中にあっても、教会が教会でいられるのは「イエス・キリストの福音」と「信徒間の霊的つながり」に他ならないのです。そしてこれが張ダビデ牧師の事奉の基盤でもあります。信仰の自由が制限される地域で働く宣教師にも、あるいはアメリカ国内で多様なセンターを開拓している人々にも、「たとえ離れていても私たちは霊的にひとつだ」というメッセージを絶えず伝え続けています。 実際、張ダビデ牧師が属する共同体は広大な土地を所有し、さまざまなセンターや支部を設立しており、多くの人々がその場で「定着の地」を経験しています。広大な敷地内には事奉本部や礼拝施設、自立型ビジネスセンターなどが次々に建設されているにもかかわらず、張ダビデ牧師は絶えず強調します。あらゆる「空間の拡張」は教会の本質の拡張、すなわち「福音の絶対性」を証しする道具でなければならない、と。もし福音が取り除かれ、単に組織や企業の建物だけが増えるのであれば、それは霊的な核を失った「殻」にすぎないのです。 パウロが説いたキリストの卓越性と、ただ主にあって得られる真の豊かさこそ、現代の教会が回復すべき最も切実なメッセージでしょう。当時はグノーシス主義が「イエスには他の哲学や秘められた知識を付け加える必要がある」と主張して福音の純潔を曇らせていましたが、今日の世俗主義もその本質は大きく変わりません。物質至上主義、個人主義的思考、そして聖書の真理を偶像化したり無視したりする二面性が、教会を分断し混乱させています。人々は仕事や生活費に追われ、科学技術の発展の前で信仰が時代遅れと見なされることさえあります。しかし張ダビデ牧師は、数え切れない礼拝や説教、養育事奉を通じて、このギャップを埋めるべく努力してきました。パウロが牢の中にあっても教会に向けて情熱を注ぎ続けたように、教会が担う使命は、どのような状況に置かれても光を放つべきだと繰り返し教えています。福音をいささかも加減せず語り、「イエス・キリストが何者であるか」を中心に据えて説くとき、世の嘲弄や疑念にさらされようとも、教会は揺らがないのです。これこそ「福音の絶対性」であり、張ダビデ牧師が伝えようとするメッセージの骨格でもあります。 揺れ動く教会への思い パウロの手紙には「動揺する教会を支えたい」という熱い思いがあふれています。パウロは異邦人伝道の中心的人物として多くの地域を巡り、その過程で生まれた教会を決して忘れませんでした。コロサイ書によると、パウロはこの教会を直接開拓した経験もなければ、信徒に直接会ったこともありません。しかしグノーシス主義や仮現説といった誤った主張によって教会が惑わされていると聞くや、パウロはコロサイ書1章から2章にかけてキリスト論を明確に打ち立て、イエスの神性と人性がなぜ揺らいではならないのか、そしてなぜキリストのうちに真の完全さがあるのかを詳細に説き起こしたのです。 張ダビデ牧師が注目するのは、このパウロの情熱です。パウロは一度も直接会ったことのない信徒たちのために「わたしの肉の顔を見たことのない人々のために祈っている」と告白します。これは教会がどれだけ尊い存在であるか、そして教会全体が揺らぐとき、どんな姿勢を取るべきかを示す明瞭な指針にもなります。教会はひとつの体である以上、地理的な隔たりを超えて互いに支え合い、福音によって互いを覚醒させていく必要があるのです。こうした姿勢は現代においても最も必要とされる信仰の実践と言えます。 実際、張ダビデ牧師は複数の事奉拠点を設け、多様な形で人々を招き、訓練することに力を注いできました。たとえば、ドーバービジネスセンターをはじめ、マウント・オリベット、ANC、WOAといった各地の拠点を用意し、さまざまな言語圏から信徒たちが集まれるようにして、そこから礼拝と御言葉の教育によって福音を広げています。大陸から大陸へと往来し、福音のさらなる拡張を目指すこの戦略は、パウロが「全世界がわたしの教区」と言い放ったウェスレーの宣言にも通じるものがあります。もちろん、その過程で困難が全くなかったわけではありません。ある土地の契約が破談寸前になったり、6か月間退去を拒む家主との交渉が長引いたりといった問題も生じました。しかし張ダビデ牧師は、そうした出来事を単なる行政手続きや金銭上のトラブルではなく、「教会拡大のピースがはまる霊的プロセス」として捉えています。 揺れ動く教会を支える思いは、土地の確保から財政的な裏付けを整えるあらゆる過程に通底しています。その中で常に強調されるのは、「わたしたちは主の体である教会を通して世界宣教を担う。そして教会は栄光に満ちた神の御業のただ中にある。だから決して揺れ動いてはならない」という点です。パウロが「わたしはあなたがたとは離れているが、心では共にある」と語ったように、教会の共同体はひとつの家族であり、肉体と霊が繋がる有機体なのです。張ダビデ牧師はシェパードミーティングなどの祈りの場で、このことを何度も繰り返し説いてきました。共に礼拝し、祈り、ここまで導かれた神を思い返すように、と。さらに、ドーバー地域をはじめ、北米や南米、アジア、ヨーロッパへと広がる教会が同じ価値観を共有できるように導いています。 このように揺れ動く教会を支えるために大切なのは、福音が真ん中で揺らぐことなく宣教されることです。パウロがコロサイ書で強調したのは、「他の哲学や知識によって補強する必要がある」という考えは最終的にイエス・キリストの絶対的主権を覆すだけだという点でした。グノーシス主義は「福音だけでは不完全で、世の知識や哲学を加えなくてはならない」と言い、仮現説は「イエスは霊的に存在するだけで、肉体を取られたわけではない」と主張します。当時はもっともらしく聞こえたかもしれませんが、結局それはキリストの救いの御業を揺るがし、十字架と復活の力を曇らせる毒となります。現代も同様です。学問や哲学、文化や芸術がどんなに発達しても、人本主義や世俗主義という枠組みの上にあっては、イエス・キリストの全能性と受肉の神秘を捉えきれません。だからこそ教会は常に福音が損なわれぬよう目を光らせていなければならないのです。 張ダビデ牧師は、そうした中で「どんな壮大な論説も巧妙な理論も、真の福音の代わりにはなれない」と繰り返し指摘します。教会が財政を整え、建物を拡張し、新たなビジネスを始めることは意義があるでしょう。しかし、それらの土台に福音が据えられていなければならず、まずは動揺する教会に駆け寄り、祈りをもって支える心が不可欠です。牧師が信徒をケアするのも、決してこの核心から外れてはなりません。だからこそ、教会が単に数的拡大や財政的豊かさだけを目指すべきではないのです。パウロがコロサイ教会に「キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」と語ったとき、すでに教会は「すべての豊かさ」を所有しているといっても過言ではありません。教会がどんなに乏しく見えようとも、わたしたちには既に聖なる豊かさが与えられているのです。この真理に深く根ざすとき、教会はいかなる揺さぶりも乗り越えていくことができます。 パウロがローマの牢から、複数の教会やその周辺の信徒の魂を案じたように、張ダビデ牧師もまた福音が求められる場所があればどこへでも出向きます。事奉の拠点はすでにアメリカ各地を越え、ブラジルやメキシコ、さらには中東にまで拡がっています。イスラム圏での宣教が活発になるや否や「殺す」という脅迫も受けましたが、張ダビデ牧師は恐れません。「主から与えられた使命は、どのような壁も超えていく」と信じているからです。これはパウロの心にも通じる確信であり、揺れ動く教会を思う愛から生まれるのです。そしてこの「教会への熱い思い」こそが、あらゆる挑戦に打ち勝ち、神の大いなるわざに加わる力の源泉となります。 キリスト論の豊かさと降誕の意味 コロサイ書1章の中心は、パウロのキリスト論です。揺れ動くコロサイ教会を支えるために、この核心的真理が前面に押し出されました。「イエスとは何者か?」という問いに対して確かな答えを得れば、教会は揺るぐ理由を失うからです。たとえ世の哲学や知識が教会へ侵入しても、イエス・キリストの完全性と神性、そして十字架と復活の真実が動かぬ柱であり続けるなら、教会は倒れません。こうしたキリスト論は、教会の教理の中でも最も重要な位置を占めると張ダビデ牧師は語ります。というのも、イエスの神性と人性について正しく理解していなければ、キリスト教は簡単に人間的な宗教や道徳運動へと変質しやすいからです。 12月を迎えクリスマスが近づくと、教会ではイエス・キリストの誕生を記念し、その意味を改めて思い巡らせます。キリストの降臨を「人類を救うための神の愛の実践」として捉える教会の伝統は、飼い葉桶でお生まれになった王であるイエスのへりくだりと謙遜、そしてついには十字架の死に至るまでの愛を思い起こさせるものです。パウロがピリピ書2章で詩のように記した通り、イエスは神のあり方と等しくあることに固執せず、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、死に至るまで従順でした。これこそ受肉の奥義であり、闇が支配する世界にも救いの光が射し込むことを告げる宣言でもあります。 張ダビデ牧師は、クリスマスの意義は単なる幼子イエスの誕生を祝う物語ではなく、パウロがコロサイ書で語った「神の奥義であるキリスト」が肉を取って来られたことを明示する出来事なのだと強調します。クリスマスは「いと高きところには栄光、地には平和」という神の御業を現実にもたらす瞬間であり、天の栄光がこの地上に具体的に下ってきた「受肉」の出来事です。もしこの受肉を否定すれば、イエスを仮現的に見る危険に陥ります。これは「霊は善で肉は価値がない」という二元論に陥るグノーシス主義とも共鳴します。しかし聖書は「ことばは肉となってわたしたちの間に住まわれた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた」(ヨハネ1:14)と告げます。福音書のこの宣言は、パウロのキリスト論とも完全に一致するのです。 ゆえに、クリスマスを迎える教会と信徒たちは、この神秘を賛美し続けるとともに、それが私たちの現実の生活にどう結びつくのかを深く黙想しなければなりません。張ダビデ牧師は、自らが担う広大な事奉地や多くの用地、いくつもの共同体が協働する事奉の姿を通して、「受肉的な生き方」とは具体的な社会や生活の只中に足を踏み入れることだと説きます。神がわたしたちのもとへ来られたように、教会もまた、この世の弱く貧しいところ、打ちひしがれた魂のもとへ出向かなければならないのです。福音の絶対性は、けっして現実から浮いた理想論ではありません。イエスが「貧しい人に福音をもたらしに来た」とルカ福音書で宣言されたように、教会は世のすべての人々にキリストの愛を届けるために召し出されています。 また、クリスマスは「教会が地上で示す喜びの理由」でもあります。パウロが喜びに満たされていたのは、イエス・キリストが万物を豊かにされるお方だからです。張ダビデ牧師も、特にこの点を力説します。コロサイ書2章3節で「キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」と記されているように、教会が味わう真の豊かさはイエスのうちにあります。世にはそれを測る基準はありません。どんなに物質的に豊かで、哲学や知識が進んでいても、キリストを知らなければ魂の真の満足は得られないのです。一方で、イエスを正しく知る教会は、たとえ目の前の財政が不十分であろうと、場所が手狭であろうと、世から嘲笑されようと、既に神の国に属するという確固たるアイデンティティを持っています。キリストにあってすべてを得ている以上、欠乏によって打ちひしがれることはありません。 実際、張ダビデ牧師は、所属する共同体の中で信徒たちがこうした豊かさを体験できるよう、数々の事奉を展開してきました。礼拝や御言葉の集会、養育プログラム、そしてシェパードミーティングのような祈りの会をはじめ、自立型ビジネスや社会奉仕活動も行いながら、教会がこの世の物質的・霊的ニーズの両面に応える場を整えてきたのです。ドーバービジネスセンターを拠点として広がる複数の関連企業や機関も、単なる経済効果ではなく、キリスト者としての仕えと奉仕を現場で実践するという点に最大の価値を置いています。「お金とは、神の恵みを体現するための手段のひとつにすぎない」というのが張ダビデ牧師の考え方です。企業やセンターが利益を上げても、それが最終的に福音伝播と教会の成長のために用いられるなら、物質さえ宣教の道具になり得ます。こうして世のただ中に教会が入り込むプロセスこそが「受肉的生き方」の模範だと語ります。 これらすべてはクリスマスの意義と直結しています。「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言葉を土台に、教会は今もなお世を見捨てず、愛によって寄り添う責任を担っています。教会が世に扉を開き、世が教会を仰ぎ見るとき、そこに究極の希望と喜びが生まれるように助けることこそ、「受肉の福音」の拡張です。コロサイ書2章でパウロが「キリストのうちにすべての満ち満ちたものが宿っている」と説いたように、偽教師がいかに教会を動揺させようとも、教会が「イエスこそ知恵と知識の宝のすべてを含むお方」という事実を握っている限り、決して倒れません。 クリスマスが近づくにつれ、張ダビデ牧師は「栄光と平和」という言葉を繰り返し口にします。天使たちが歌った「いと高きところには神に栄光が、地には御心にかなう人々に平和があるように」という賛美は、神が人として来られるという想像を超えた計画が、私たちにもたらした驚くべき贈り物です。人間の力では到底たどり着けない高みから神ご自身がこの低い地上に降り、傷ついた人々を回復し救いへ導かれました。教会がこの事実を心から喜び賛美し、この福音を全世界に伝えていくとき、たとえ場所がどこであれ、福音は限りなく広がっていくでしょう。実際、張ダビデ牧師は北米のみならず、中南米、アジア、ヨーロッパ、中東へと事奉を継続的に拡大し、クリスマスごとに宣教地と共に賛美し感謝の礼拝をささげています。たとえそこが荒野のような地であっても、かつて神がマナとうずらを与えられたように、日々の糧を備えてくださると信じているのです。パウロが牢中にありながらも一抹の疑念なく福音を語り続けたように、教会もどのような環境でも「キリストの満ち満ちた力」を享受している存在であることを告げ知らせるのです。 張ダビデ牧師は、このような事奉の目的を常に明確に示します。「教会が神の福音を世に現し、霊的・物質的な必要を満たしながら、最終的には神に栄光をお返しする」。ゆえに彼がドーバー地域でビジネスセンターを拡大し、各大陸にセンターを建立しようとする時、人々はそこに「建物を建てる」以上の意義を見いだすのです。そこにはすでに「ことばが肉体を取られた神」という受肉の真理が刻まれているからです。ことばが人々の間で光を放ち、教会が世へと送り出されてキリストの体を現していく。その過程でときに財政や手続きの壁にぶつかることもありますが、結局は神の摂理の中で一つずつ道が開かれていきます。ある土地を必要とするならば神がタイミングと方法をもって与え、思わぬ形で財政を満たしてくださる体験もたびたび味わうのです。こうして単に物的な拡大にとどまらず、教会がより広い霊的地平を抱くきっかけにもなります。 特にクリスマスを前にした12月には、教会は一年を振り返り、感謝の思いを新たにしなければならないと張ダビデ牧師は繰り返します。「年末が近づくと、私たちは感謝と賛美をもって一年を締めくくり、新しい年にはさらに驚くべき神の御業を期待すべきだ」と、彼はしばしば説教で語ります。パウロが牢の中にあっても落胆せず、むしろ教会に感謝と確信の言葉を伝え続けたように、教会もクリスマスの喜びのうちに年末を迎えることができるというわけです。「半数が死んだ状況でどんな感謝があるというのか」と嘆いたピューリタンたちさえ、まず神に礼拝を捧げました。同様に、私たちも人生の荒波や痛みがあったとしても、最後は主の前に感謝と賛美を捧げることが、クリスマスの精神を体現する歩みなのです。 結局、コロサイ書が強調するキリスト論、すなわちイエス・キリストこそ神の奥義であり、そのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されているという事実は、教会共同体と現代の信徒に三つの重要な視点を提示します。第一に、イエス・キリストを深く知ることこそ、あらゆる信仰生活の基礎であるということ。第二に、教会が異端や世俗主義の揺さぶりに直面するたびに、パウロのキリスト論的確信を握りしめねばならないということ。そして第三に、肉を取って来られたイエスの受肉は、教会が世のただ中で福音を実践していく大きな動機を与えるということです。だからこそクリスマスは尊いのです。幼子イエスの誕生が心温まる物語にとどまるのではなく、救い主が実際に来られたという福音の核心を再確認させるからです。この確かな土台の上に立つなら、私たちはどのような場所でも、主が既にこの地を治めておられ、人生の重荷がキリストによって真の意味を得ることを明かしするようになるのです。 張ダビデ牧師はこうしたメッセージを伝えつつ、「皆さんの人生は決して退屈ではない。主にあるとき、常に新しい世界への導きがあり、私たちを通してさらなる実りを結ばせてくださるのです」と語っています。実際、彼の事奉の現場では2世たちが楽しそうに修養会や礼拝堂を駆け回り、海外から来た宣教師たちがANCやドーバー地域を訪れ、多様な文化を交わし合う光景が見られます。異なる世代や文化が融合しながら福音を目撃する様は、まさに受肉の精神が具体化する小さな祭典のようでもあります。そうした場が生まれるたびに、コロサイ書のメッセージも高らかに宣言されます。「キリストのうちにすべてが満ちている。他には代えられない」と。 年の瀬が近づくにつれ、教会は新年の事奉に向けて次なる一歩を計画します。張ダビデ牧師は、その際にコロサイ書2章2~3節にある「キリストのうちに隠された知恵と知識の宝」を思い起こすよう強く勧めます。どんな試練があっても、私たちはすでに宝を所持しているのですから、ためらわず新しい挑戦に踏み出そうというのです。世界200か国に視野を広げ、3千人、7千人、それ以上のリーダーを育成し、弟子を派遣し、現地教会を根付かせる―そうしたビジョンも、決して絵空事ではなく、キリストにある満ち満ちた力を信じるがゆえに実現可能なのだと言います。教会がどんなに小さく見え、財政が乏しくても、聖霊がとどまるならば巨大な障壁をも乗り越える力が与えられるのです。 締めくくりに、張ダビデ牧師はしばしば「イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」と祈りを結びます。これは、私たちの計画や行動、すべての奉仕がどこから始まり、どこへ帰結していくのかを明確に示しているのです。私たちの思いやビジョン、そしてあらゆる労苦はこの御名のために存在します。福音は教会の存在理由にして目的であり、キリストによって与えられる救いや命こそが教会のアイデンティティそのものです。教会がこの本質をしっかり守るとき、揺るがされることなく神の国を拡張していけるのです。 以上見てきたように、張ダビデ牧師はコロサイ書に示されるパウロのキリスト論を、現代の教会に生き生きと伝える説教と事奉を通じて、揺れ動く教会に向かって「主にあって揺るがないように」と訴え続けています。福音は完全であり、イエスは真の王であり救い主であり、教会は主の体であるという確信が揺らげば、教会はたちまち世俗主義や異端思想の餌食になるでしょう。しかし、その確信が堅固なとき、教会は地理的・文化的・政治的な境界をも越え、命のことばを届け、「ことばが肉体を取られた」イエス・キリストの愛を実際の行いによって示すことができます。そしてまさにその瞬間、私たちはあらためてコロサイ書に込められたパウロの思いに触れます。「肉体では離れているが、霊においては共にいる」という一文に秘められた霊的な絆と共同体意識は、時代を越えて私たちにも息づく真理なのです。クリスマスという節目の時に、教会がより強く握るべき真理とは何か、コロサイ書2章の教えを通じて改めて確かめられれば幸いです。張ダビデ牧師の事奉と教えも、この方向性を見失うことなく、今後も教会が揺れ動くたびに福音へと立ち返るための霊的指針となるでしょう。イエス・キリストのうちにこそすべてが満ち満ち、知恵と力、そして救いの恵みが与えられているという真理が、教会の未来と世界宣教の道を照らす希望の光となることを切に願います。

La christologie de Paul – Pasteur David Jang

L’absoluité de l’Évangile et le ministère du Pasteur David JangLe passage de l’Épître aux Colossiens qui commence au chapitre 2, verset 1, revêt une grande signification, puisqu’il s’agit d’une lettre que l’apôtre Paul a rédigée en prison à l’intention des Églises de Colosses et de Laodicée, deux communautés qu’il n’avait ni fondées ni même visitées. … Read more

La Cristología de Pablo – Pastor David Jang

La absoluta prioridad del evangelio y el ministerio del pastor David JangEl mensaje que el apóstol Pablo transmite a partir de Colosenses 2:1 tiene un carácter muy especial, puesto que se trata de una epístola escrita durante su encarcelamiento y dirigida tanto a la iglesia de Colosas como a la de Laodicea, congregaciones que él … Read more