十字架の道を歩む弟子 - 張ダビデ牧師

1. へりくだりと仕える姿勢を示されたイエス様 イエス様が弟子たちの足を洗われた出来事は、ヨハネの福音書13章12~17節に明確に描かれています。特に13章14~15節で主は「わたしが主であり、また教師であるのに、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、わたしは模範を示したのです」(新改訳2017参照)と仰せられました。この場面は一般に「洗足(せんそく)」として知られ、イエス様が弟子たちの足を洗われた理由とその意味を探るとき、私たちは深い霊的教訓を得ることができます。 イエス様は万物の創造者であり、私たちの救い主であり、永遠の神の御子として、栄光と尊厳を受けるにふさわしいお方です。それにもかかわらず、その方が弟子たちの足を洗うという仕え方をされたのは、単なる道徳的な教え以上の深い真理を示しています。当時の文化的背景を見れば、舗装されていないほこりっぽい道を歩く人々は、食事の前に下僕や召使いによって足を洗ってもらうのが礼儀でした。しかし、本来ならばイエス様を直接お仕えすべき立場にある弟子たちに対して、むしろイエス様ご自身が足を洗うという、一種の逆説的行動をお示しになったのです。これは「最も高きお方が最も低い場所に下られた」出来事であり、イエス様の謙遜と仕える本質がはっきりと示されています。 張ダビデ牧師は、複数の説教の中でたびたび「本当に神の前にへりくだるとき、自然に仕える心があふれ出る」と強調しています。彼が言う「謙遜」とは、単に自分を卑下する“自己否定”ではなく、神の御心の前に自分の主張を手放し、イエス・キリストの模範に倣って隣人を愛する積極的な態度を意味します。イエス様のへりくだりは、ご自身を無価値にする行為や自己憐憫ではなく、「最も尊いお方がご自分の権利を主張せず、むしろ神の愛の偉大さを現された」ことなのです。 イエス様の行動は「神的な謙遜」と呼ぶことができます。これは天の栄光を捨てて人として来られた受肉(受肉=インカーネーション)の出来事とも深く結びついています。ピリピ人への手紙2章6~8節は、イエス様を「神の本質を持つ方」と紹介しながらも、「ご自分を無にして下僕の姿をとり、人間と同じようになられた」と教えています。そして人として現れたイエス様は、自らを低くして死に至るまで従順になられた、と続きます。ヨハネの福音書13章の洗足の出来事は、このような神的謙遜の具体例として示されているのです。イエス様はご自分が神であることを放棄されたのではなく、むしろ「自発的にご自分を空しくする」ことを通して、私たちに模範を示してくださいました。 主の仕え方が特別な理由の一つは、その対象が弟子たちだった点にあります。弟子たちはイエス様に従い、多くの奇跡や教えを学んだ者たちでしたが、それと同時に人間的な欲や争いにさらされてもいました。イエス様が捕えられる前、ルカの福音書22章24節以下を見ると、彼らの間で「だれが偉いか」という取るに足らない争いがあったことが記録されています。このように弟子たちはまだ成熟せず、主の御心を完全に理解していませんでした。にもかかわらず、イエス様は彼らの足を洗われました。これは、まだ弱く未熟な者たちに注がれる神の大いなる愛を示す場面です。 張ダビデ牧師は、この箇所をしばしばたとえとして用い、「私たちもイエス様の御心をもって、ときには私たちを裏切ったり誤解したりする人々さえも仕えることができるようになるべきだ」と力説します。仕えるとは、相手が「仕えるに値する価値をもともと持っているから」するのではなく、「神がすでにその価値を与えている」という視点を信じているがゆえに可能なのだ、ということです。つまり、私たちの仕えは条件的ではなく、恵みに基づきます。相手がふさわしい態度を示そうが示すまいが、イエス様のへりくだりに倣う道であるなら、ためらわずに「足を洗ってあげる」ことが必要だという意味なのです。 イエス様の洗足は、単に足を洗う行為そのものに意味があるのではなく、その行為を通して現れる心と態度にこそ真の意味があります。イエス様は「あなたがたも互いに足を洗いなさい」と命じられましたが、そこには単に「実際に水で足を洗う行動」を超えて、私たちの生活のあらゆる領域で仕えることを実践するよう呼びかける思いが含まれています。当時の文化では足を洗うことは下僕の務めでしたから、イエス様は自らその下僕の地位に降りられたのです。ですから私たちもイエス様を信じる以上、日常生活の中で絶えずへりくだり、隣人に対して謙虚に仕える姿勢を身につけることが大切です。 仕えることを通して、私たちの「自己中心性」が打ち砕かれます。人間は本来、自分の利益や得を優先して考えがちです。聖書が語る「古い人」は、絶えず自分を誇示し、高くなろうとします。しかし主は「本当に高くなろうとする者は低くならなければならない」と仰せられました。この御言葉は世の価値観に真っ向から対立しますが、神の国はまさにそうした「逆説の王国」です。最も高く上がるためには最も低い所へ行かなければならないという逆説が、神の国では真理として働くのです。 張ダビデ牧師は、しばしば「へりくだりこそ霊的成長の近道だ」と語ります。そのために彼はイエス様の洗足の出来事を例に挙げながら、謙遜と仕える姿勢こそ、教会の中に紛争があるとき、その問題を解決する強力な方法だと強調します。争いや不和が生じる多くの原因は、大抵の場合、「自分が正しい」「自分がより上だ」という思いから始まります。しかし、互いに仕える姿勢に転換するとき、真実な和解と一致が起こり得るのです。イエス様が弟子たちの足を洗われたように、私たちも誰かの「汚れた足」を洗い、その人を受けとめ、その歩んできた道のほこりさえも洗い流してあげる心を持つべきなのです。 では、具体的に私たちはどうやってへりくだりと仕えることを実践できるのでしょうか。まず第一に、イエス様の模範に目を向けることです。宗教的熱心や道徳的修養だけでは、イエス様が示された完全なへりくだりに到達することは難しいでしょう。真の謙遜は、ただ十字架の愛を深く黙想し、聖霊の助けによってイエス様の御心に倣うときにこそ可能になるのです。また、自分が理解できない状況や、自分が損をしているかのように思える状況でも、主の御心がそうであるなら喜んでへりくだり、仕えようと決意する必要があります。 足を洗う出来事には、もう一つ「きよめ」という意味も含まれています。イエス様は弟子たちの足を洗いながら、清めを象徴的に示されました。ペテロが最初は拒み、それから「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言ったとき、イエス様は「すでに体を洗った者は足だけ洗えばよい」と仰せになりました(ヨハネ13:9-10参照)。これはイエス様の内にあって生まれ変わった者でも、日常生活の中で罪のほこりがつくことがあるため、絶えず主の恵みによって清められる必要があることを象徴します。つまり、互いに足を洗うということは、互いに清めを祈り合い、互いを立て上げる愛の心が伴っていなければならないのです。 張ダビデ牧師は多くの説教の中で「私たちが互いに足を洗うとき、その人の弱さや罪性さえも覆い、赦し、立て上げようとする態度が必要だ」と語っています。そうすることで、教会の共同体や信徒の生活が「清めの恵み」を分かち合う場となるのです。結局、このすべてのへりくだりと仕えは、イエス様の十字架の愛を基盤とします。十字架で既に示された神の無条件の愛を覚えるとき、私たちは自分の自我を下ろし、隣人に仕える力を得ることができます。 このように、ヨハネの福音書13章に描かれたイエス様の洗足の出来事は、多くの時代のキリスト者たちにとって、へりくだりと仕えの模範となってきました。教会史の中で修道院運動や平信徒運動など、さまざまな霊的刷新運動もまた、「イエス様のへりくだりを見習おう」というメッセージを中心に起こりました。そして21世紀を生きる私たちにも、なおこの御言葉は有効です。なぜなら、現代社会はますます自己を高めようとする風潮が強くなり、個人主義や競争が激化している時代だからです。しかし、主は変わらずに仰せられます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、わたしは模範を示したのです。」私たちはこの御言葉を心に留めつつ、実際の生活において形にしていく義務があります。 結論として、へりくだりと仕えを通して神の国が私たちの間にもたらされ、これこそが真の弟子の道であることをイエス様は身をもって示されました。私たちのために喜んで天の栄光を捨て、最も低い場所に下られたイエス様のお姿の中に、神の愛の深遠さを見いだすことができます。そして「互いに足を洗いなさい」との命令は、単なる外面的な仕えにとどまらず、心の奥底からの謙遜を要求します。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、教会の内外でこのような仕えの態度が回復されるとき、真のリバイバルが起こり、個人の霊的成長も同時に成し遂げられるでしょう。この真理を深く心に刻み、イエス様の模範に倣ってへりくだりと仕えを行うキリスト者となりたいものです。 2. 互いの重荷を負い合う:キリストの律法を全うする道 ガラテヤ人への手紙6章2節でパウロは、「互いの重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります」と語ります。ここで言う「キリストの律法」とは愛の律法のことです(ローマ13:10参照)。イエス様が私たちに与えてくださった「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めこそキリストの律法であり、イエス様が弟子たちの足を洗われた行為は、この律法の最も具体的な例示といえます。「互いの重荷を負い合いなさい」という命令は、日常生活の中で「互いの困難や痛みを共に担え」という意味であり、その核心にはやはり仕えと分かち合いがあります。 ヨハネの福音書13章でイエス様は、へりくだって仕えることを実践されましたが、ガラテヤ書ではパウロが、この仕えが「互いに重荷を負うこと」によって具体化すると語っています。重荷とは、それぞれの人が抱えている人生の重さ、すなわち罪や悲しみ、経済的苦しみ、身体的な病、霊的葛藤など、広い意味を含むことができます。パウロはこれを、一人で背負うのではなく、共同体の中で分かち合うようにと命じています。これは個人主義が蔓延する現代社会ではなおさら不自由に感じられる要求かもしれません。しかし、イエス様の教えに従うなら、教会の中で祈りと愛をもって互いを助け合うとき、キリストの恵みが一つの体のように流れるようになるのです。 張ダビデ牧師は、さまざまな説教、特に教会共同体の重要性を強調するメッセージの中で、しばしば「神は私たちが一人で生きることを望まれるのではなく、重荷を共に担い愛を実践する共同体を打ち立てることを望まれる」と語ります。人々は往々にして自分の問題にしか集中せず、他人の問題には無関心になりやすいのですが、キリストの律法のもとでは、こうした利己的態度を捨て、隣人の痛みに参与することが求められます。重荷を共に負うことは大変なことですが、同時にそれは私たちを成熟させ、共同体を強固に建て上げる道でもあるのです。 「互いの重荷を負い合いなさい」という御言葉の前提は、「重荷が存在する」という事実です。教会は完全な人々の集まりではなく、罪や傷、不十分さを持った人々が神の恵みによって集められた共同体です。したがって、一人ひとりに言葉で言い表せないような重い荷があるものです。ある人は家族の問題、ある人は健康上の問題、また別の人は精神的な苦悩や経済的困窮に苛まれているかもしれません。こうした重荷は個人の力ではどうにもならない場合が多いのです。しかし教会の中で真実な愛が実践されるとき、互いに祈りを求め合い、具体的な助けを分かち合い、共に泣き共に喜ぶことができます。このようにして重荷を分かち合うとき、私たちはもはや一人でその人生の責任を負うのではなくなり、イエス様の御命令どおりキリストの律法を全うするのです。 では、具体的にどうすれば私たちは他者の重荷を負うことができるのでしょうか。第一に、相手の事情や状況を知るように努める必要があります。教会の中でも無関心に過ごしていると、だれがどんな痛みの中にあるのかわかりません。良好な関係とコミュニケーションが前提になってこそ、相手の重荷を共に負うことができます。第二に、自分が実際にその重荷をどう分かち合えるかを考えなければなりません。祈りによって共に歩むことであれ、物質的支援であれ、単なる慰めの言葉や傾聴であれ、自分ができることは何かを探るのです。第三に、このすべての過程を通して、自分自身も霊的に成長することを覚える姿勢が必要です。重荷を背負うことは決して楽なことではありませんが、イエス様が示された仕えの道なので、その道で私たちはいっそう主に似た者へと変えられていきます。 張ダビデ牧師はガラテヤ6章2節を説教する際、「キリストの律法」は単に頭の知識や感情的な共感にとどまらず、実際の行動を伴うものだと強調します。イエス様が弟子たちの足を洗われた上で「あなたがたも互いに足を洗いなさい」と仰せられたのは、口先だけの愛を語るのではなく、行動で示せというチャレンジでした。そしてパウロが「互いの重荷を負い合いなさい」と命じたのも、互いに対して責任を持ち、愛を具体的に実践せよということです。 私たちはしばしば教会での奉仕や仕えを語るとき、礼拝や行事の進行、あるいは伝道活動を連想しがちです。もちろん、それらも大切な仕えの領域ですが、それ以上に根本的なのは「関係の中で現れる愛」です。だれかが人生の崖っぷちに立たされているとき、その人を支えるささやかな助けの手や、落胆した魂のために捧げられる一言の祈りこそが、真に「互いの重荷を負う」姿勢だと言えます。これこそ張ダビデ牧師が言う「真の教会の姿」です。互いの重荷を負う共同体は、外面的に華やかではないかもしれませんが、その内には深い霊的な結びつきと神の愛が流れているのです。 別の観点として、重荷を共に負うことは赦しと寛容の態度を含みます。私たちは皆、罪人であり、失敗やつまずきを起こす可能性があります。しかし、教会の中で互いの過ちを受け入れ合い、包み込む思いがなければ、すぐに分裂が起こり、葛藤が深まってしまいます。けれども、イエス様が教えられたように、七の七十倍までも赦し合い(マタイ18:22参照)、教会内外の争いをも互いにゆるし合うなら、教会は赦しの共同体、真の愛の共同体になります。ここで言う赦しとは、相手の罪や誤りを正当化するのではなく、それらすべての欠けた部分をも十字架の愛で覆うという意味です。足を洗う行為が相手の汚れを洗い清めるように、私たちも互いの罪や弱さをイエス様の血潮によってきよめられるよう祈り、心に受け入れる姿勢が必要なのです。 張ダビデ牧師は「互いの重荷を負う姿こそ、教会の栄光ある本質を表すものだ」と繰り返し強調します。教会が世の人々から尊敬されるのは、豪華な建物や組織力によるのではなく、このような仕えと愛の実践によるのだというのです。ガラテヤ6章2節が示すキリストの律法は、パウロが語るとおり律法の完成であり(ガラテヤ5:14参照)、この愛の律法を成し遂げる道こそ、イエス様が身をもって示してくださった道です。イエス様は十字架において、私たちの罪の重荷を代わりに背負ってくださいました。だから私たちもイエス様の御心をもって互いの重荷を負い合い、十字架の愛を具体的に世に示さなければなりません。 「互いの重荷を負い合いなさい」という命令を、私たちは単なる頭の理論ではなく、日常生活に深く取り込むべきです。教会の中で、家庭の中で、職場や社会の中で、私たちはどれほど互いの重い荷を担おうと努力しているでしょうか。誰かが苦しんでいると聞いたときに、「祈りますね」と声をかけるだけで、実質的な助けや心からの関心を払わずに終わってはいないでしょうか。愛は言葉ではなく能動的行動によって証明されます。小さなことから実践し、互いが互いに「キリストの重荷を分かち合う」助け手となるとき、真の共同体が形成され、教会は世に対して神の栄光を現すことができるのです。 結局、イエス様が示された洗足の出来事は、ガラテヤ6章の御言葉と一つにつながります。へりくだり(洗足)と仕え、互いの重荷を負う愛、そして十字架を負う弟子の道。この三つは同じメッセージを放っています。張ダビデ牧師はこれを「キリスト者が決して見失ってはいけない核心」と呼び、教会が存在する理由はまさにこの福音の本質を失わず、世に明かしすることにあると主張します。今日の教会は多くの挑戦に直面していますが、この本質をしっかりと握り、イエス様のようにへりくだり、仕え、互いの重荷を負い合い、十字架を負う生き方をするとき、私たちは世の光と塩となり、神に栄光をお返しすることができるのです。 こうした互いの重荷を負い合う生き方は、一見私たちを苦しめるように思えますが、実のところさらに大きな恵みと喜びを経験させてくれます。というのは、私たちが個々の力では乗り越えられないような山のような問題を抱えていても、重荷を分かち合う共同体の中ではその重さが分散され、祈りの力が倍増し、不思議な神のわざを体験できるからです。そしてその現場において、私たちは神の生きて働かれる証し人となっていきます。キリストの愛によって互いの重荷を負い合う教会は、どんな状況の中でも揺るがない堅固な岩のような信仰共同体として立ち上がるでしょう。 3. 十字架の道と真の弟子の生き方 ヨハネの福音書13章16~17節でイエス様は「しもべは主人よりも偉くはなく、つかわされた者はつかわした者よりも偉くはありません。これらのことをわきまえてそれを行うなら、あなたがたは幸いです」と仰せられました。弟子たちの足を洗われたイエス様は、ご自分を「主」や「先生」と呼ぶ弟子たちに対して、それでもなお「わたしはあなたがたに仕えたのだから、あなたがたも仕えるべきだ」と命じられます。そして「これらのことをわきまえて行うなら幸いだ」と付け加えられます。これはすなわち、イエス様が身をもって歩まれた道、すなわち十字架の道に従っていくときにこそ、真の幸いが与えられるという宣言なのです。 十字架の道は最も苦しく、最も困難な道です。しかし、それと同時に罪と死に対して永遠に勝利する道でもあります。イエス様は十字架での死を通して、私たちに罪の赦しと永遠のいのちをお与えになり、復活を通して命の道を開いてくださいました。ところがイエス様は、ご自分が十字架を負われるだけでなく、その弟子たちにも「自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と招かれました(マタイ16:24参照)。つまり、真の弟子の生き方とは、苦難と死を伴う「十字架的な生き方」です。キリストの苦難にあずかる場においてこそ、真の霊的復活と喜びを味わえるのです。 張ダビデ牧師は「私たちが十字架から目を離す瞬間、私たちの信仰はすぐに世俗的な欲や人間的な高慢によって崩れ去る可能性がある」とたびたび警告します。というのは、十字架は私たちの罪深さと利己心を徹底的に砕くからです。十字架の前では、だれも誇ることができず、自分を高めることはできません。ただイエス様の贖いだけが光り輝き、その愛だけが唯一の誇りとなるのです。ですから、真の弟子の生き方とは、日々十字架に立ち返り、イエス様が示されたへりくだりと仕えを実践する生き方にほかなりません。 イエス様の弟子たちは、最後の晩餐の席でも「だれが一番偉いか」と言い争っていました。これは極めて人間的な姿です。私たちも日常の中で絶えず比較意識にとらわれ、より高い地位、より多くの承認、より快適な状況を望みます。しかしイエス様の十字架の道は、その逆方向を指し示します。最も高くあられるお方が最も低くなられ、王である方がしもべの姿をとられ、罪のない方が罪人の立場で苦しまれたのです。私たちはこのイエス様を「主」と告白し、従う者です。ですから、十字架を負ってイエス様に従う弟子は、人生の中で自分を捨て、隣人に与え、たとえ苦難が伴っても喜んで担う心を持たねばなりません。 ヨハネの福音書13章に描かれた洗足の出来事とガラテヤ6章の「互いの重荷を負い合いなさい」という御言葉は、十字架の道を歩むうえでの具体的な指針となります。つまり、へりくだって仕えることで自分の十字架を負う道こそ、真の弟子の生き方です。イエス様は言葉ではなく行動によってこれを示され、「これらのことをわきまえて行うなら幸いです」と弟子たちに仰せられました。この「幸い」は、世が言う物質的・世俗的・一時的な幸いではありません。神の国において与えられる永遠の喜びと平安、救いの完成にあずかる幸いです。 張ダビデ牧師は他の多くの説教でも「十字架の道は苦しみと涙なしには歩めない道」だと言いつつ、「しかしその苦難の先には復活の栄光が待っている」と強調します。イエス様が死の淵を通られなければ、復活の勝利は迎えられなかったように、私たちも苦難の過程を通らねばなりません。結局、真のキリスト者の人生とは「四旬節(受難節)の精神」に絶えず覚醒している生き方と言えます。四旬節はイエス様の苦難を黙想し、自分の内にある高慢や罪を悔い改め、改めて十字架の前で謙ってひざまずく期間です。しかし、この姿勢は四旬節だけのものではなく、日常のすべてにわたって継続すべき姿勢なのです。 十字架の道を歩むとき、具体的に私たちの人生にはどのような変化が起こるでしょうか。第一に、「愛の実」を結ぶようになります。イエス様は「新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言われ、ガラテヤ5章でパウロも御霊の実の最初に愛を挙げています。十字架の前にとどまるとき、聖霊が私たちの心を変化させ、利己心を取り去り、イエス様の愛で満たしてくださいます。第二に、「赦しと和解」が生まれます。イエス様は十字架上でも、御自分を向こう見ずに攻撃する者たちのために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。十字架の道を歩む者は、敵でさえも愛し、教会内外の葛藤も十字架の愛によって乗り越えようと努めます。 第三に、「献身と従順」が伴います。イエス様は十字架を負うことが父の御心であると知りつつ、最後まで従順されました。苦難が恐ろしくなかったわけではなく、その恐れの中でも神の御心を選ばれたのです(マタイ26:39参照)。真の弟子はこのように、自分の思いよりも神の思いを優先し、聖霊の声に敏感に耳を傾け、人生の大小の決断において「主よ、どちらが御心でしょうか」と問い続ける態度を養います。第四に、「謙遜と仕え」の習慣が身につきます。十字架は私たちをいつも目覚めさせます。どのような働きや奉仕においても、自分が目立つのではなく、イエス様だけが現れるようにとへりくだる心を持つようになるのです。 これらすべての過程を通して、私たちは「キリストの弟子としての道」を実際に生きることになります。イエス様が「これらのことをわきまえて行うなら幸いです」と仰せられた御言葉には、単なる知識ではなく、従順の実践が求められるという意味が込められています。イエス様が弟子たちを諭されるたびに繰り返し強調されたのは、「聞くだけでなく行う者になりなさい」ということです。私たちが聖書をたくさん知っていても、説教を好んで聞いていても、賛美に感動していても、実際の生活で十字架の道を選ばなければ、すべては意味がなくなってしまいます。 張ダビデ牧師は説教の中で「イエス様の道は『足し算』の道ではなく『引き算』の道だ」と強く訴えることがあります。つまり、この世は多くを築き、所有し、成功を求めますが、イエス様は自発的に捨て、空しくし、犠牲を払われました。この逆説を体験することこそ十字架の弟子の生き方です。世が語る価値観とは正面衝突しますが、その道にはイエス様の同行があり、究極的には真の喜びと栄光が約束されています。 それゆえ、「しもべは主人よりも偉くなく、つかわされた者はつかわした者よりも偉くない」というイエス様の御言葉は、私たちが決して主を追い越したり、主の御心を超えてしまうことはできないことを思い起こさせます。私たちはイエス様のしもべであり、イエス様に遣わされた使命を持つ者たちです。だからこそ私たちに選択の余地はありません。主が歩まれた道、すなわち十字架の道を歩むときにのみ、私たちは真の幸いにあずかることができるのです。しかし驚くべきことに、この道はへりくだりと仕え、苦難と犠牲を通して「イエス様に似せられていく」という祝福の道でもあります。 張ダビデ牧師は教会の現場で「この地上で十字架を負った者こそ、やがて天の国で栄光を味わうことになる」と幾度も説いてきました。信仰の先達たちもこの道を歩みました。使徒たち、殉教者たち、そして教会史上多くの信仰の証人たちは、自分の人生で十字架を負い、へりくだり、神に忠実でした。その結果、福音は多くの迫害と困難を乗り越えてもなお伝えられ続けました。現代に生きる私たちも、この道を諦めずに歩むなら、教会は神の栄光を現し、世の光と塩となり得るのです。 私たちは時々、十字架の道を歩みながら落胆したり疑問を抱くかもしれません。なぜこんなに苦しいだけなのか、なぜ苦難が減らないのか、なぜ善を行っても世に認められないのか、など。しかしイエス様が既に示された道を思い起こすとき、そこがまさに「いのちの道」であるとわかります。十字架の後には復活があり、死の後には永遠のいのちの勝利がありました。イエス様に従う者にも、この復活の栄光が約束されています。私たちはその栄光を見据えながら、今の苦難とつらい道のりを「永遠の価値」のために耐え忍ぶことができるのです。 結論として、ヨハネの福音書13章12~17節とガラテヤ6章2節、そしてイエス様が示された十字架の道は、一つのメッセージに集約されます。へりくだり(洗足)と仕え、互いの重荷を負う愛、そして十字架を負って歩む弟子の道です。張ダビデ牧師はこれを「キリスト者が決して忘れてはならない核心」と呼び、教会が存在する理由は、この福音の本質を見失わずに世に証しすることにあると語ります。今日、教会はさまざまな困難に直面していますが、この本質を守り抜き、イエス様に倣ってへりくだりと仕えを実践し、互いに重荷を負い合い、十字架を負う生き方をするとき、私たちは世に対して光となり塩となって神に栄光をお返しすることができるでしょう。 これらすべての教えを整理してみると、第一に、イエス様は最も高いお方でありながら弟子たちの足を洗われるという謙遜と仕えの模範をお示しになりました。第二に、ガラテヤ6章2節の御言葉どおり、私たちは互いの重荷を負って愛の律法を成就し、これによって教会共同体が強固に立ち、世に神の愛を明らかにできます。第三に、十字架の道は苦難と犠牲の道ですが、真の弟子はこの道を喜びとともに歩むことで復活の栄光にあずかります。これこそ神が私たちに与えてくださる真の幸いであり、イエス様が「あなたがたがこれらのことをわきまえて行うなら幸いです」と宣言された理由です。 だからこそ、私たちがイエス様を主であり教師と告白するならば、その生き方を単に知識として知るだけでなく、実際に従わなければなりません。足を洗われた主の謙遜な御手を覚えつつ、今私たちの周囲で誰が苦しんでいるのかを見回さなければなりません。そしてその人の重荷を喜んで共に負い、祈り、必要であれば物質的・精神的・霊的助けを差し伸べる場所へ踏み出すべきです。十字架の前で自分の利己的欲望を下ろし、イエス様の仕えを実際の生活において生き抜く者となるよう決心しましょう。そのとき、張ダビデ牧師が繰り返し訴えてきたように、「へりくだりと仕えから来る真の栄光」を味わうことができ、教会は世に対して「主の道」を示す生きた証人となるのです。 結局、イエス様が弟子たちに「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」と仰せられた御言葉と、ガラテヤ6章2節の「互いの重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります」という命令を私たちはしっかりと心に留めるべきです。さらにヨハネが伝えるとおり、イエス様は最後まで弟子たちを愛され、十字架にかけられた最後の瞬間までも人々のためにご自身をささげられました。この十字架の愛を黙想しながら、私たちも最後まで愛し抜く人生、互いの足を洗い合う人生、互いに重荷を負い合う人生を歩む必要があります。これこそが真の弟子の道であり、張ダビデ牧師が強調してきた「イエス・キリストの真の証人」としての使命です。そしてその道の上で、私たちは主の復活の栄光にともにあずかる祝福された者となるのです。

Following the Way of the Cross as a Disciple – Pastor David Jang

1. Jesus, Who Showed the Example of Humility and Service Jesus washing the disciples’ feet is vividly described in John 13:12–17. In particular, in verses 14–15, the Lord says, “If I then, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also ought to wash one another’s feet. For I have given you an example, … Read more

Seguir el camino de la cruz – Pastor David Jang

1. Jesús, quien nos mostró el ejemplo de la humildad y el servicio El episodio en que Jesús lava los pies de sus discípulos está claramente descrito en Juan 13:12-17. Especialmente en los versículos 14-15, el Señor declara: “Pues si yo, el Señor y el Maestro, he lavado vuestros pies, vosotros también debéis lavaros los … Read more

십자가의 길을 따르는 제자 -장재형목사

예수님께서 제자들의 발을 씻기신 사건은 요한복음 13장 12-17절에 잘 나타나 있습니다. 특히 13장 14-15절에서 주님은 “내가 주와 또는 선생이 되어 너희 발을 씻었으니 너희도 서로 발을 씻어 주는 것이 옳으니라 내가 너희에게 행한 것 같이 너희도 행하게 하려 하여 본을 보였노라”고 말씀하셨습니다. 이 장면은 흔히 알려진 ‘세족(洗足)’이라고 불리는 본문으로, 예수님께서 제자들의 발을 씻어주신 이유와 그 의미를 탐구할 때 우리에게 깊은 영적 교훈을 줍니다. 예수님은 … Read more

救恩之路 – 张大卫牧师

Ⅰ. 律法与福音的关系,以及凭信心所开启的恩典世界 在开始解释罗马书第4章之前,张大卫牧师强调需要先关注罗马书3章31节。保罗在此说:“难道因着信心就废掉律法吗?断乎不是!”这句话是为了解除关于律法与福音关系的争议而设定的前提。并非因福音而令律法变得完全无意义,反而应当看到,福音乃是对律法的“成全”和“完成”。只有在此理解之下,才能更加清晰地看待罗马书第4章的整体内容。张大卫牧师指出,保罗正是竭力要让人们明白这一点。如果把律法比作一个小三角形,那么福音就是包含这个小三角形的大三角形;若把律法比作一个小圆,那么福音就是包容那个小圆的大圆。也就是说,律法绝非被废掉,而是在更大的恩典框架之内,其本质意义得到了完满。这正是福音的概念。 从“福音包罗律法”的这一角度出发,张大卫牧师强调,应将旧约与新约都视为彰显神恩典、带来救恩的两种形态。在旧约里,已经多次记载了因“信心”而得救的事件,也记录了神因着恩典所行的作为;同一位神在旧约与新约中都始终如一地工作,这是不能被忽略的事实。保罗也正是要阐明这个要点,才在罗马书第4章举出亚伯拉罕和大卫的例子。然而很多人在研读罗马书时,往往轻易略过第4章,或者认为“这一章是写给犹太人的”,就急着跳到第5章。对此,张大卫牧师提醒我们要仔细思考:保罗为何用了如此充分的篇幅,专门来谈亚伯拉罕、大卫,以及割礼和律法的问题?这是因为保罗对自己的同胞犹太人怀有深切的忧思与热情,想要尽力纠正他们对律法和恩典福音的错误理解。这一背景值得我们留意。 张大卫牧师特别指出,犹太人当中存在一种误解:“若接受福音,那岂不是意味着废除律法吗?”但保罗强调,律法与福音并非互相对立或矛盾。当律法的目标得以实现之时,恩典的福音也就得到了完整彰显。福音并不排斥律法,反而完全承担了律法的本来目的——让人知罪,并揭示人无法凭自己达到神的义,最终将人引向基督。因此,“因信称义”并不是在新约时代突然出现的教义,而是早已在旧约中一贯彰显的神的救恩方式。罗马书第4章正是要突出这一点。 在犹太人的历史中,至关重要的两个人物就是亚伯拉罕和大卫。张大卫牧师说明,保罗挑选他们二人是极具巧思的。亚伯拉罕在血统和信仰上,都被犹太人视为“祖先之父”;而大卫是以色列王国鼎盛时期的代表,也是预表弥赛亚王权的关键人物。路加福音16章中的比喻曾说“拉撒路死后被带到亚伯拉罕的怀里”,这就表明犹太人对亚伯拉罕拥有极高的尊崇。此外,大卫写下许多诗篇,也被视为与主耶稣的王权血统相连之人。马太福音1章1节称:“亚伯拉罕和大卫的子孙,耶稣基督的家谱。”由此可见,马太以亚伯拉罕和大卫为谱系的基准点。保罗在罗马书第4章提到亚伯拉罕(13节、912节)与大卫(68节)的布局,正是一种“以犹太人最具权威的两位伟人来阐明福音真理”的方式,正如张大卫牧师所说。 保罗所提出的问题是:“亚伯拉罕和大卫究竟如何在神面前被拣选并称义?”答案只有一个——神的恩典和人的信心。这并非在福音出现后才突然诞生的新模式,而是在旧约时代就一直存在、且持续不断的神之救恩历史。张大卫牧师解释道,保罗似乎在说:“如果在律法之前,亚伯拉罕已经因信而被称为义;如果大卫因为悔改而写下诗篇,宣告‘得赦免其罪的人是有福的’,那岂不正是福音的基础吗?” 在罗马书4章1~3节,保罗首先强调了亚伯拉罕的例子。他说“亚伯拉罕若凭肉体可夸,就无可夸耀”,提醒人们亚伯拉罕是偶像商人他拉的儿子,从血统或人的资历来看,根本无可自夸。张大卫牧师指出,这突显了“人本质上是罪人,若无神的恩典,就无法得救”的严肃现实。实际上,在创世记第12章里,当亚伯拉罕离开本地、本族、父家,顺服神的呼召时,他并非凭自己有什么功劳,而是纯粹出于对神的信任与顺服。于是,圣经才记载“亚伯兰信耶和华,耶和华就以此为他的义”(创世记15章6节)。这表明即使在律法尚未颁布之前,“因恩典所及而算为义”的原则就已经在运作了。 张大卫牧师还补充说:“对于做工的人,他的工价算不得恩典,而是应得的酬劳;但那不做工却蒙神称为义的,才是真正有福之人。这正是保罗一再强调的。”这与马太福音20章葡萄园工人的比喻或马太福音9章税吏马太蒙召成为门徒的事件相呼应。那些早已遵守律法且自以为义的人(法利赛人),最终往往无法真正体会到神“全然恩典”的内涵,甚至对它心生抗拒;反倒是承认自己罪孽的税吏,一旦悔改,就立刻得着神的怜悯与恩惠。其中蕴含的“悖论”真理便是,保罗所说“因行为而生的功劳之信”极其危险,“惟独因恩典而来的救恩”才是有福的。张大卫牧师表示,这些故事正好凸显了保罗所传讲的信息:指望靠行为得称义是错谬的,唯有恩典才能拯救人。 更深入来看,罗马书4章6~8节引用了大卫在诗篇32篇中的告白:“大卫虽然犯下夺人之妻、杀人之罪,但当他悔改时,神就遮盖了他的罪。‘得赦免其过、遮盖其罪的,这人是有福的。’”这是因为大卫并不自以为义,而是单单仰赖神的怜悯与恩典。所以保罗在此引用诗篇32篇,让犹太人看到:“大卫早就经历了这份恩典。在律法与旧约的敬拜模式之外,更重要的是认罪并得着神的赦免,这本身就透露出福音的核心。难道你们犹太人自己不清楚吗?” 进一步而言,亚伯拉罕得称义的关键时刻,并不是他在99岁受割礼之后,而是在他约75岁时尚未受割礼之前。张大卫牧师指出,这对“将割礼视为得救前提”的犹太思维是个极具挑战的信息。亚伯拉罕之所以成为“信心之父”,并非因为血统、肉体功劳或仪式,而是因着他凭信心被神称为义。因此,保罗在罗马书第4章里极力说明,救恩绝非基于律法功劳或血统的优越性,而是基于因耶稣基督而来的神的恩典,以及人对这恩典的信心。这对犹太人,也对今天的我们都有重要启示。张大卫牧师进一步补充说,这正是保罗的核心论点——亦是他在犹太文化和对弥赛亚信仰的深刻体悟之上,所形成的精妙教导。 总之,律法让人看清罪,让罪人明白自己在神的义面前无法站立。然而福音却宣告:耶稣基督借着十字架与复活,替我们担当了罪和刑罚,白白赐给我们义的地位。保罗在罗马书4章15节说:“因为律法是惹动忿怒的;那里没有律法,那里就没有过犯。”张大卫牧师解释,正是因为律法使人更加自觉罪孽的沉重,并让人受制于不可背负的命令,所以才会带来“咒诅”和“定罪”。但当耶稣基督代替我们承担了这一切,我们便终于得享自由。所以,保罗在罗马书4章整章都在阐述律法与福音的关系,并最终高举“因信称义”这向所有人敞开的恩典之路。 Ⅱ. 亚伯拉罕与大卫所展现的信心:张大卫牧师眼中的旧约“恩典”见证 张大卫牧师认为,罗马书第4章并非只是在罗列抽象的神学概念,而是借着亚伯拉罕与大卫这两位旧约代表人物,清晰展现“神的恩典早已在历史中运作”的证据。以色列子民最敬重的先祖亚伯拉罕,以及最辉煌的王大卫,他们二人都并非凭行为得称义,而是因信心得以被神悦纳。这正是串联旧约与新约的核心教导。 首先,在亚伯拉罕身上所体现的信心核心,可以概括为“相信那使死人复活之神的大能”。创世记第15章中,神应许亚伯拉罕:“你的后裔要像天上的星那样多。”但从现实来看,亚伯拉罕年近百岁,撒拉也早已断了生育的可能,可谓绝望般的境地。尽管如此,亚伯拉罕仍然抓住了神的应许。张大卫牧师认为,这可以视为“对复活信心的先行预表”。正如罗马书4章17~19节所说,亚伯拉罕在“无可指望的时候仍然存着指望而信”,最终撒拉怀孕并生下应许之子以撒,后裔果然多如天星、海边沙。保罗借此说明:“神能使无变有、使死人复活”,亚伯拉罕的经历正好证明了这一点。 不仅如此,亚伯拉罕在接受“献上以撒为祭物”这一命令时,仍然笃信“神必自有预备”。创世记第22章的记述,表明亚伯拉罕深信“即使面对死亡,神也能转化为生命”的绝对能力。罗马书4章20节以后描述“他丝毫没有因不信而怀疑神的应许,反倒因信心更加坚固,将荣耀归给神”,突出亚伯拉罕并没有用理性或知识去衡量神应许的可能性,而是全然地相信神的话语。张大卫牧师指出,亚伯拉罕这种毫无保留的信任,正是福音所说的信心(即对神的爱和救恩应许的积极领受)的典范。 其次,大卫的例子表现在诗篇32篇的宣告:“得赦免其罪、过犯被遮盖的人有福了。”虽然大卫曾犯下与拔示巴行淫、将乌利亚置于死地的大罪,但当先知拿单责备他时,他悔改了,于是就蒙了神的饶恕。按律法来说,大卫应当被处死,因为奸淫和杀人都是重罪。然而神却遮盖了他的罪,让他成为“耶和华不算为有罪的人”。张大卫牧师指出,“从人的角度看,大卫理应无法逃脱惩罚,但神却为他遮罪并接纳了他,这说明在旧约时代也充分展现了神的恩典。” 旧约这两位属灵伟人都凭着“恩典”和“信心”而被称义,这恰恰是保罗的论证核心。若有人质疑:“外邦人没有律法,怎能得救?”保罗就会回答:“连亚伯拉罕也在律法之外、甚至还未受割礼时就已被称义;大卫同样经历了罪得赦免的恩典。如此说来,福音向犹太人和外邦人同时敞开,凭信得救,又有何不妥呢?”在张大卫牧师看来,保罗是“在对犹太历史与旧约神学有深刻洞察的基础上,同时又在基督里看见了新约真理”的使徒。他能最有力地重新诠释自己民族的历史,使之与耶稣基督的救恩接轨,带领所有族裔进入“向万民开放的救恩之路”。张大卫牧师也认为,从这个角度看,保罗不仅是一个神学理论家,更是把犹太民族的历史在基督里重新审视,并指引万民走向救恩的真牧者、真宣讲者。 因此,救恩并不会因血统而世袭传承。同样地,教会也不应该按“肉体”去传承,而应以“信心”去传递。张大卫牧师指出,今日教会若以世俗的权力、财富或家族方式来“世袭”教职,实际上正与罗马书4章所批判的问题无异。保罗在第4章13节以后说:“神应许亚伯拉罕和他后裔承受世界,并不是借着律法,而是借信心而得的义。”这就宣告,真属亚伯拉罕后裔的,不是那些以肉体或律法功劳为根据的人,而是“相信神的应许,并在那应许之中生活的人”。 Ⅲ. 借十字架与复活而成全的称义 张大卫牧师尤其聚焦在罗马书4章的末段(尤其是23~25节)。保罗在这里说:“神称亚伯拉罕为义,不仅是为亚伯拉罕个人,也是为了我们这些将来的人。”并指明原因在于:“我们这信神使我们的主耶稣从死人中复活的人,也要被算为义。”也就是说,张大卫牧师认为,保罗把旧约亚伯拉罕的经历当作预表,进而联系到新约耶稣基督的死与复活。亚伯拉罕曾相信“在像死胎一样的撒拉身上会产生生命”的复活性奇迹;同样地,在新约里,耶稣基督被钉死又从死里复活,也把同样的永生与义赐给我们。 接下来保罗写道:“耶稣被交给人,是为我们的过犯;复活,是为叫我们称义。”(罗马书4章25节)张大卫牧师称之为“代赎的死亡,以及通过复活来加以确证”。耶稣替罪人担当刑罚,既彰显了“神的公义”,也体现了“神的慈爱”。因此人才能在神的法庭上得“无罪判决”,即称义。但这并非终结,接着的复活显明了这救赎之工的完全,以及耶稣连死亡都已胜过。张大卫牧师指出,如果没有复活,并不意味着耶稣的代赎不具能力;只是通过复活,这救恩的大功在世人面前更加清晰地确立起来,使信徒可以切实参与复活的生命,享有明确的自由与荣耀。 十字架象征“罪得赦免”,复活则象征“新生命”。张大卫牧师认为,这是保罗神学关于救恩的两大支柱。保罗在罗马书第4章中,先透过回顾旧约亚伯拉罕与大卫的见证,说明神的恩典怎样历史性地运行,然后宣告这一切在耶稣基督的死与复活之中已得以完全成就,并且向万国万民敞开。“我们因过犯得罪神,耶稣替我们受死;但他的死并没有结束,他还从死里复活,彰显了救赎的完满。”张大卫牧师补充说,保罗有时称之为“代表理论”——如果亚当作为全人类的代表,把罪带给世界,那么耶稣作为新人类的代表,就替人类付清罪债,并把他的义转加给我们。 这“双重归算”或“伟大交换”的思想,就是“我们的罪归在耶稣身上,而耶稣的义加给我们”这一震撼人心的福音本质。张大卫牧师强调:“若我们真能从心里接受这交换的真实,就能确知自己已完全脱离律法的咒诅,并在每天的生活中经历复活的生命大能。”如此一来,教会群体也不会再依赖律法规定、血统传统或人的功德与荣耀,而是单单夸耀耶稣基督的十字架与复活,承认所有信徒都同蒙这恩典,在此宣告上合一。 简而言之,张大卫牧师总结,罗马书第4章说明了“藉着亚伯拉罕的信心和大卫的悔改经历,让我们看到在律法时代就已显明了‘恩典和信心的救赎原则’,并通过耶稣基督的十字架与复活使之圆满完成的神圣救赎计划”。这既是保罗所要传达的中心信息,也是整个基督教福音的核心之一。律法带来知罪与人的无力感,基督的死与复活则完全解决了罪的问题,并赐给我们“称义”的身份。更美好的是,我们还藉着对基督复活的信心,与他同得“复活的生命”。正如亚伯拉罕在毫无指望的情况下仍存盼望一样,今天的新约信徒也因基督已胜过死亡并复活,而得以凭信称义,并最终获得复活的生命。 因此,张大卫牧师向当今教会提出几点需要从罗马书第4章省思的地方。第一,信仰的本质不是遵守律法,而是凭信心领受恩典。第二,旧约的圣徒也早已体验了这个原则,彰显了旧约与新约的连续性,而非割裂。第三,耶稣基督的十字架是罪得赦免的完成,复活则是称义的确证与新生命的开端。第四,“信心”意味着在毫无指望的处境中仍紧紧抓住神的应许;那时神的能力就会显现。最后,基于这种信心所形成的救恩群体,绝不夸耀个人的功劳、血统、地位或人的权威,而只高举神的恩典。保罗的教导,对于容易陷入律法主义的教会,或轻忽律法、忽略福音责任的群体,都是极为重要且必须遵守的真理。 最后,张大卫牧师指出,罗马书4章25节可谓最能高度概括救恩信息的经文:“耶稣被交给人,是为我们的过犯;复活,是为叫我们称义。”此话凝聚了十字架与复活、罪的赦免与称义等所有核心神学要点。人无法自行偿还的罪债,全由耶稣基督替我们承担;而复活则证明了这代赎之工完全无缺。信心就是接受这爱的邀约,正如亚伯拉罕曾为神的应许舍弃一切,我们也应当完全相信复活的耶稣,放下自我中心的生活,天天活在十字架的恩典与复活的大能之中。张大卫牧师反复强调,这才是基督教信仰的精髓,也是保罗借罗马书第4章向犹太人和外邦人,以及历世历代所有民族所传递的永恒福音。 罗马书第4章所要阐明的,正是“并非出于人的功劳,而是完全因着恩典和信心而得的救恩,自旧约时代便已彰显,并在基督的十字架与复活中达到巅峰”。这份信息,对于历代的圣徒与今日教会,依然具有同等的价值与重要性。在此,我们再次强调这一要点:这段关于罗马书第4章的大脉络,正提醒每一个时代的基督徒和教会,唯有紧紧把握“因信称义”这永不改变的真理,才能真正走在神的恩典之路上。

救いの道 – 張ダビデ牧師

Ⅰ.律法と福音の関係、そして信仰によって開かれる恵みの世界 張ダビデ牧師はローマ書4章を解説するにあたり、まずローマ書3章31節に注目すべきだと強調する。そこではパウロが「では、私たちは信仰によって律法を廃するのか。絶対にそんなことはない」と語っているが、これは律法と福音の関係に関する論争を解決するための前提だというのである。福音によって律法が完全に無意味になるのではなく、むしろ福音こそが律法を「成就」し「完成」するという理解があってこそ、ローマ書4章全体を明確に捉えることができる。張ダビデ牧師によれば、パウロはこの点をはっきりさせるために苦心しているという。もし律法を一つの小さな三角形にたとえるなら、福音はその小さな三角形を包含する大きな三角形であり、律法が小さな円であるなら、福音はその円を包み込む大きな円であるとも言える。つまり、律法が決して無効化されたのではなく、より大きな恵みの枠組みの中でその本質的な意味が完成される、というのが福音の概念なのだ。 このように福音が律法を包括するという視点から見ると、旧約と新約もまた、神の恵みを示す救いの二つの形態として理解されるべきだと張ダビデ牧師は強調する。旧約においてもすでに「信仰」による救いや神の恵みによる出来事が継続的に記録されており、同じ神が旧約と新約を通して一貫して働かれたという事実を見落としてはならないというのである。パウロもこの問題を説明するためにローマ書4章でアブラハムとダビデを例に挙げている。しかし多くの人がローマ書を講解する際、4章を軽く扱いがちで、あるいは「これはユダヤ人向けの章だ」とみなし、5章へ飛び越えてしまうことが多いという。だが張ダビデ牧師は、パウロがどうしてこれほど長く、しかもまとまった一章を割いてアブラハムとダビデ、さらに割礼と律法の問題を取り上げるのか、その理由を考察すべきだと指摘する。そこには同胞であるユダヤ人に対するパウロの切実な思いと情熱があり、彼らが律法と恵みの福音を誤解している現実を何とか解きほぐしたいという文脈を読み取る必要があるというのだ。 さらに張ダビデ牧師が特に注目するのは、ユダヤ人の間に「福音を受け入れたら律法は廃止されるのではないか」という誤解があったことだ。しかしパウロは、律法と福音が互いに矛盾するものではないと強調する。むしろ律法が持っている目的が完成する瞬間に、恵みの福音が完全な意味をもって現れるのだ、と教えている。福音は律法を排除するのではなく、律法の本来の目的(罪を自覚させ、人間が神の義に到達できないことを明らかにし、最終的にキリストへと導く手引きとなる点)を完全に果たしてくれる。したがって「信仰によって義と認められる」という教えは、新約で突然登場したものではなく、旧約でも一貫して示されてきた神の救いの方法だったのである。ローマ書4章はまさにその点を強く際立たせている。 ユダヤ人の歴史において非常に重要な二人の人物こそアブラハムとダビデだ。張ダビデ牧師によれば、パウロがこの二人を取り上げたのは実に巧みな選択だという。アブラハムは血統的にも信仰的にもユダヤ人の「父」のような存在であり、ダビデはイスラエル史の頂点といえる王権の代表であり、メシアの予表とされる人物である。ルカの福音書16章には「ラザロが死んでアブラハムのふところに入った」というたとえ話があるが、それほどユダヤ人はアブラハムを絶対的に尊い祖先とみなしていた。一方ダビデは詩篇の多くを記し、イエス・キリストの王権的血統を示す存在だった。マタイの福音書1章1節でも「アブラハムとダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と述べ、アブラハムとダビデを系譜の基準点にしている。最終的に、パウロがローマ書4章でアブラハム(4章13節、9〜12節)とダビデ(4章6〜8節)を挙げる構造は、「ユダヤ人にとって最も権威のある二大巨人を通して福音の真理を説明する」方法だ、と張ダビデ牧師は述べる。 パウロが提示する問いはこうである。「アブラハムとダビデは、いかにして神の前に選ばれ、義とされたのか?」 その答えは、ひとえに神の恵みと信仰によるものだということだ。これは福音によって突然もたらされた新しいパラダイムではなく、旧約時代から継続してきた同一の神の救いのわざだと、パウロは証明しているのだ。張ダビデ牧師によれば、パウロの論理はこうだ。「もし律法以前にすでにアブラハムが信仰によって義と認められ、さらにダビデが自らの罪を悔い、『罪が赦された者は幸いだ』と詩篇に記したのなら、それこそ福音の土台ではないか」というわけである。 まずローマ書4章1〜3節ではアブラハムの例が強調される。パウロは「アブラハムは肉によって誇ることがなかった」と言うが、それは彼が偶像を売るテラの息子であったこと、血統的にも人間的資格から見ても神の前に誇れるものなど何もなかったことを想起させる。張ダビデ牧師はこれこそ「人間は本質的に罪人であり、神の恵みなしには救いを得られない存在である」ことを強く示す記述だと解説する。実際、創世記12章でアブラハムが故郷と親族、父の家を離れて神の命令に従ったのは、彼の功績が認められたわけではなく、ただ神を信じる「信仰の行為」に過ぎなかったのだ。ゆえに聖書が「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(創世記15章6節)と記すことは、律法以前の時代にもすでに「恵みによる義」が働いていたことを示す結論へとつながる。 さらに張ダビデ牧師は、「働く者には報酬が恵みではなく当然の賃金とみなされるが、働いていないのに神から義と認められた者こそ本当に幸いな者だ、とパウロは繰り返し強調している」と付け加える。これはマタイの福音書20章のぶどう園の労働者のたとえ話や、マタイの福音書9章で取税人マタイがイエスの弟子となる話にもよく表れている。早くから律法を守り自らを正しいとみなしていた人々(パリサイ人)は、結局「神の全面的な恵み」を実感できずにむしろ反発したが、罪人である取税人が悔い改めた瞬間、神の恵みがその人に注がれるという逆説的真理がここに込められているのだ。張ダビデ牧師によれば、こうした物語を通して、パウロは「行いによる功績信仰」の危険性と、「恵みによる救い」の幸いを強調しているのだという。 ここでもう一歩踏み込むと、詩篇32篇に出てくるダビデの告白が登場する(ローマ書4章6〜8節)。ダビデはバト・シェバを奪い、ウリヤを殺すという悪行を犯したにもかかわらず、悔い改めるや神は彼の罪を覆ってくださった。「咎を赦され、罪を覆われた者は幸いだ」と宣言できたのは、ダビデ自身が正しかったからではなく、ただ神の愛と恵みによって罪が覆われたからである。パウロはこの詩篇32篇の言葉を引用して「ダビデもまたすでにこの恵みを体験した者ではないか。律法や旧約の礼拝規定を守ることを超えて、罪を告白して神の赦しを受けるという出来事こそ福音が示す本質なのだと、あなたがたユダヤ人自身も知っているではないか」と語りかけているのだ。 さらにアブラハムが義と認められた決定的時点は、彼が割礼を受けた後(99歳のとき)ではなく、すでに割礼を受ける前(およそ75歳頃)のことだった。張ダビデ牧師によれば、これは割礼を「救いの前提」であるかのように考えていたユダヤ人の思考を覆す決定的メッセージだという。アブラハムが信仰の祖となったのは、血統や肉的な功績、あるいは儀式によるのではなく、純粋に信仰によって神から義とみなされた結果だったのだ。ゆえにパウロはローマ書4章を通して、救いは決して律法的な功績や血統的優位によるのではなく、イエス・キリストを通して与えられる神の恵みと、それを受け入れる信仰によるのだと、ユダヤ人たち(そして現代の私たちにも)強く主張する。張ダビデ牧師は、これこそがパウロの核心的な論理であり、パウロが長年ユダヤ文化圏で培った律法の知識とメシア的信仰体験とが一体となった精緻な教えなのだと付言している。 結局、律法は罪を明らかにし、罪人である人間が神の義の前にけっして立てないことを悟らせる装置である。しかし福音は、その罪責と重荷をイエス・キリストの十字架と復活によって背負わせることで、私たちに「値なしに与えられる義」を賜物としてもたらす。パウロが「律法は怒りをもたらすものです。律法のないところには罪の違反もありません」(ローマ書4章15節)と言うのも、そうした文脈なのだ。張ダビデ牧師は、律法が罪をいっそう自覚させ、人間の実存をその重い命令の下に縛りつけるがゆえに「呪い」と「罪の宣告」を免れ得ないのだが、イエス・キリストがそれを代わりに背負ってくださったとき、はじめて私たちは自由を得られるのだ、という点を明確に捉えるべきだと解説する。したがってパウロはローマ書4章を通して一貫して律法と福音の関係を解き明かし、最終的には「信仰による義」こそすべての人に開かれた恵みの道なのだと提示しているのだ。 Ⅱ.アブラハムとダビデが示した信仰:張ダビデ牧師が見つめる旧約の「恵み」の証拠 張ダビデ牧師は、ローマ書4章が単に神学的な概念を羅列しているのではなく、旧約の二大代表的人物であるアブラハムとダビデを通して「神の恵みがすでに歴史的に働いてきた証拠」を明らかにする章だと語る。イスラエルの民が最も崇敬し尊敬する祖先であるアブラハムと、最も輝かしい王であるダビデ。彼ら二人がそろって行いではなく信仰によって義と認められたという事実こそ、旧約と新約を結ぶ核心的な教えなのだ。 まずアブラハムに見る信仰の核心は、「死者を生かされる神への確信」であると要約できる。創世記15章で神はアブラハムに「あなたの子孫を星のように数多くする」と約束されたが、現実的にはアブラハムは百歳近く、妻サラもすでに生理が止まり、子を宿すことは不可能という絶望的な状況だった。しかしアブラハムはなお神の約束を握り続け、張ダビデ牧師はこれを「復活の信仰の先取り」と見ることができると解説する。ローマ書4章17〜19節にもあるように、アブラハムは「望み得ない時に望みを抱いて信じた」。結果としてサラは懐妊し、信仰の子イサクを生み、その後天の星や海辺の砂のように数多くの子孫が繁栄した。パウロはこれを指して「神は無いものをあるもののように呼び、死者を生かされる方」であることが示された例だと言及するのである。 さらにアブラハムはイサクをいけにえとして捧げよとの命令を受けたときでさえ、「神ご自身が備えてくださるだろう」という信仰を示した。創世記22章の物語は、結局アブラハムが「死さえも命へと変えられる神の絶対的な力」を信じていたという強い告白である。ローマ書4章20節以下に「彼は信仰が弱くならず、むしろ堅固となって神に栄光を帰した」と描写されるように、アブラハムは知識や合理的思考で考えると不可能に思える状況でも、神の言葉にのみすがった。張ダビデ牧師は、この全面的な神への信頼こそ、福音が語る信仰(神の愛と救いの約束を積極的に受け入れる態度)の原型だと説明する。 次にダビデの例が挙げられるが、張ダビデ牧師はダビデが詩篇32篇で「咎を赦され、自分の罪を覆われた者は幸いだ」と歌っている部分に注目する。ダビデはバト・シェバの件で致命的な罪を犯したにもかかわらず、ナタン預言者の戒めを聞いて悔い改めることで命を救われた。これはまったく神の赦しのおかげであった。律法の定めに従えば、ダビデは間違いなく死刑に値する(姦淫と殺人という重大な罪だから)はずだった。にもかかわらず、神が彼を赦し、ダビデの罪を覆ってくださったのだ。張ダビデ牧師は「人間の観点からすれば刑罰を免れる術はなかったにもかかわらず、神が罪を覆ってダビデを受け入れられたのは、旧約にもすでに十分な恵みが作用していたことを示す出来事だ」と解釈する。 このように、旧約の二人の霊的巨人がいずれも「恵み」と「信仰」を通して義と認められた事例こそ、パウロの論証の要である。だからこそユダヤ人が「異邦人は律法なしでどうやって救われるのか?」と問い返すとき、パウロは「アブラハムでさえ律法なしに、しかも割礼を受ける前にすでに義と認められたではないか。ダビデも同様に罪の赦しの恵みを経験した。であれば、福音がユダヤ人にも異邦人にも同じく『信仰』によって開かれるのは、何ら不思議なことではないではないか」と答えるのだ。張ダビデ牧師は、この点で「パウロこそユダヤの歴史と旧約神学を最も深く理解した使徒でありながら、同時にキリストにあって与えられる新しい契約を最も説得力をもって説き明かす神学者でもあった」と評価する。その観点から見ると、張ダビデ牧師がとらえるパウロ像は、単に神学的概念の論争をする人ではなく、自らの民族が経験してきた歴史をイエス・キリストにあって再解釈し、「すべての民族に開かれた救いの道」へ導こうとする、真の牧会者であり説教者としての姿が際立つというのだ。 結局、救いは血統によって世襲されるものではない。教会もまた「肉によって」ではなく「信仰によって」次世代へ受け継がれるべきである。張ダビデ牧師は、今日の教会が世の権力や富、家柄が世襲されるように、信仰の職分を世襲しようとするなら、それはまさにローマ書4章が指摘する問題と変わらないと指摘する。パウロが4章13節以下で「アブラハムとその子孫への約束は、律法を通してではなく、信仰の義によって与えられた」と語るのは、決して肉的基準や律法的功績ではなく、「神が約束されたことを信じ、その約束の内に生きる者」こそが真のアブラハムの子孫なのだ、と宣言しているのにほかならない。 Ⅲ.十字架と復活によって完成される称義 張ダビデ牧師は、ローマ書4章の最後の部分(特に4章23〜25節)に焦点を合わせる。ここでパウロは「アブラハムが義と認められたという事実は、アブラハム一人だけのためではなく、私たちすべてのためでもある」と宣言する。そしてその根拠として「私たちの主イエスを死者の中から甦らせた方を信じる私たちにも、同じように義と認められる」と語るのである。つまり張ダビデ牧師によれば、パウロは旧約のアブラハムの出来事を雛形として、新約のイエス・キリストの死と復活を結びつけていることがわかる。アブラハムが「死んだも同然のサラの胎から命が生まれる」という「復活的奇跡」を信じたように、新約時代においてはイエスが死なれ、そして復活されることで、私たちにも同じように永遠の命と義が与えられるのだという。 さらにパウロは「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた」(ローマ書4章25節)と続ける。張ダビデ牧師は、これを「代償的な死と、その死を確証する復活」とまとめる。罪人が犯した罪に対する刑罰をイエスが代わりに負われることは、「神の正義」と「神の愛」を同時に満たす出来事だ。これによって人間は法廷で無罪判決、すなわち称義を得る。しかしそれだけで終わらず、復活によってその贖いのわざが完全であることが示され、イエスが死をも打ち破られた方であることが証明される。張ダビデ牧師は、復活がなかったとしてもイエスの代償の死の力が少しも損なわれるわけではないが、復活によって救いの完成が世に明確に示され、信じる者はその復活の命にあずかることで、はっきりとした自由と栄光に至るのだと語る。 すなわち十字架は「罪の赦し」を意味し、復活は「新しい命」を意味する。張ダビデ牧師は、これこそ救いに関するパウロ神学の二大柱だと考えている。パウロがローマ書4章を通して証言しようとしたのはまさにこれである。旧約におけるアブラハムとダビデの出来事を通して、神の恵みがどのように働いてきたかを説明し、それがイエス・キリストの死と復活という出来事を通してすべての民族に完全に開かれたと宣言するのだ。「私たちは罪のためにイエスが引き渡された」というのは、本来罪人が処罰されるはずの場所にイエスが身代わりとして入られたことを意味する。パウロはこれをしばしば「代表の理論」と呼んでいると、張ダビデ牧師は補足する。アダムがすべての人類の代表となって罪を広めたのなら、イエスこそが新しい人類の代表となって罪の代価を支払い、義を転嫁(インプット)してくださるお方なのだ。 このような「二重の転嫁」あるいは「壮大な交換」の思想は、私たちのすべての罪がイエスに移され、イエスの義が私たちに与えられるという驚くべき福音の本質である。張ダビデ牧師は「もし私たちがこの交換の現実を本当に心から受け入れるなら、律法の呪いから完全に解放されたと確信できるだけでなく、日々復活のいのちの力を体験できるようになる」と語る。それだけでなく、教会共同体においても律法的規定や血統的伝統、人間的功績や誇りを打ち立てるのではなく、ただイエス・キリストの十字架と復活を誇り、すべての聖徒が同じ恵みに浴しているとの告白の上に一つとなることができるのだ。 要するに、張ダビデ牧師はローマ書4章を「アブラハムの信仰とダビデの悔い改めの経験を通して、律法時代にもすでに恵みと信仰による救いの原理が働いており、それをイエス・キリストの十字架と復活によって完全に成就された神の救いのご計画を宣言する章」と要約する。それはパウロの本論であると同時に、キリスト教福音の核心の一つでもある。律法は罪を自覚させ、人間の無力さを宣言するが、キリストの死と復活はその罪を完全に解決して私たちに義の身分を授ける。そしてキリストの栄光の復活にあずかる道こそ「信仰」である。アブラハムが望み得ない状況でなお望みを抱いて信じたように、新約の時代を生きる私たちも、イエスが死に打ち勝って甦られた事実を信じることによって義と認められ、ついには復活の命をも得るという結論である。 ゆえに張ダビデ牧師は、今日の教会がローマ書4章を通して学ぶべき教訓をいくつか挙げている。第一に、信仰の本質は律法の遵守ではなく「恵みを信仰によって受け入れる」ことである。第二に、旧約の聖徒たちもすでにこの原理を体験していたという点で、旧約と新約は断絶ではなく連続性をもつ。第三に、イエス・キリストの十字架は罪の赦しの完成であり、復活は称義の確証であり、新しい命の出発点である。第四に、「信仰」とは望み得ない状況でも神の約束にすがる態度であり、その時にこそ神の力が現れる。最後に、このような信仰に基づく救いの共同体は、個人の功績や血統、地位、人間的権威ではなく、ただ神の恵みを高く掲げる。これこそパウロの教えであり、律法主義に陥りやすい教会や、逆に律法を軽視して福音の責任を忘れがちな共同体の双方が必ず押さえなければならない重要な真理なのだ。 最後に張ダビデ牧師は、ローマ書4章25節こそが救いのメッセージを劇的に要約した本文だと語る。「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた。」ここには十字架と復活、罪の赦しと称義、そのすべての核心神学が集約されている。人間が自力では贖いきれない罪の代価をイエスが引き受け、その贖いのみわざが完全であることを示す証しが復活である。信仰とはまさにその愛の招きを受け入れることであり、アブラハムが命がけで神の約束に従ったように、私たちも甦られたイエスを心から信頼し、自分中心の生き方を捨て、日々十字架の恵みと復活の力の中を歩むことである。張ダビデ牧師は、これこそキリスト教信仰の真髄であり、またローマ書4章を通してパウロがユダヤ人と異邦人を問わず、あらゆる時代・あらゆる民族に伝えようとした永遠の福音だと重ねて強調する。 ローマ書4章が語るところ、すなわち「人間の功績ではなく、全面的な恵みと信仰による救い」が旧約時代から連続しており、その頂点がキリストの十字架と復活によって完成されたというのが、本稿の要旨である。ローマ書4章のこの大きな流れは、すべての時代の信徒、そして現代の教会にもなお有効であり、重要な真理として適用され得ることを最後に強調したい。

구원의 길 – 장재형(장다윗)목사

Ⅰ. 율법과 복음의 관계, 그리고 믿음으로 열리는 은혜의 세계 장재형목사는 로마서 4장을 해설하기에 앞서, 로마서 3장 31절을 주목해야 한다고 강조한다. 바울이 “믿음으로 말미암아 율법을 파기하느냐? 그럴 수 없느니라”라고 말할 때, 이는 율법과 복음의 관계에 대한 논쟁을 해소하기 위한 전제라는 것이다. 복음으로 인해 율법이 완전히 무의미해지는 것이 아니라, 오히려 복음이 율법을 ‘성취’하고 ‘완성’한다는 이해가 바탕이 되어야 … Read more