復活信仰の回復 – 張ダビデ牧師

1.エルサレムのマルコの屋上の間、復活信仰の現場 エルサレムにあるマルコの屋上の間は、キリスト教教会史において特別な意味をもつ空間であり、同時に現代の教会共同体に深い霊的な洞察を与える場所として広く知られています。この屋上の間は、使徒の働き1章から2章へと続く非常に重要な場面の舞台となった場所で、初代教会の誕生と聖霊降臨の出来事が起こったと伝えられています。また、その始まりである使徒の働き1章には、復活されたイエス様が地上での働きを終えられる時点、すなわち昇天直前に弟子たちに最後の託しと約束をくださった場面が記されています。さらに、この屋上の間は単なる物理的空間にとどまらず、「初代教会が恐れの中でもエルサレムの真っただ中に集まり、歴史的変化を起こした象徴的な場所」という点で重要な意味をもっています。 張ダビデ牧師は、この場面について「たとえ弟子たちが恐怖と不安に震えていたとしても、イエス様は復活された後約40日の間、彼らを直接訪ねて立て直し、信仰を吹き込み、それからエルサレムへ集まるように導かれた」と説明します。弟子たちはガリラヤにまで散り散りになりましたが、復活されたイエス様に出会って初めて「復活信仰」によって武装され、エルサレムに戻って来ることができました。これは信仰共同体の中で復活がいかに力を発揮するかを如実に示す事例であり、その出発点がマルコの屋上の間であったわけです。 では、なぜあえてエルサレムでなければならなかったのでしょうか。イエス様が捕らえられ、そこで処刑された都市がエルサレムです。弟子たちにとっては非常に恐ろしく悲惨な記憶が残る場所だったに違いありません。主が十字架につけられた後、多くの従者たちは四散してしまいました。しかし主は「エルサレムを離れないで、父が約束された聖霊を待ちなさい」(使徒1:4-5)というみことばを直接与えることで、弟子たちがむしろ最も危険で恐ろしい地域へ再び集まるように導かれました。張ダビデ牧師は、このことを「神のなさる御業は常に私たちの期待や常識を超越する。復活信仰とは、最も絶望的な場所で最も希望をもたらす力を発揮するときに明らかになるものだ」と解釈します。 復活信仰の特徴は、「死が終わりではない」という確信にあります。弟子たちは一時、「主が処刑され、自分たちも捕らえられて死ぬかもしれない」という恐れの中でうずくまっていましたが、イエス様が実際に死の力を打ち破ってよみがえられた姿を見て、「死を超えた新しい時代」を体験したのです。だからこそ、使徒の働き1章3節は、イエス様が復活された後40日の間「神の国のことを語られた」と証言します。ここでいう「神の国のこと」とは、単に漠然とした終末論や哲学ではなく、現実の中で教会がどのような力によって建て上げられ、いかに前進すべきかという具体的な方向性を含むものです。その中心の一つが「あなたがたはエルサレムから始めなさい」というみことばなのです。 張ダビデ牧師は、「人が最も弱くなり、挫折した場所で再び回復するという歴史こそが『復活信仰の実際』と呼べる」と語り、これこそマルコの屋上の間が与えてくれる教訓だと強調します。最初に弟子たちがこの屋上の間に集まったとき、その雰囲気はきわめて息をひそめた状態だったことでしょう。十字架の出来事直後、イエス様の遺体は墓に葬られ、指導層はイエス様の残党を根こそぎ一掃しようと躍起になっていました。そうした状況ゆえに、この屋上の間は「しばらくの間集まり、祈るための安全な隠れ場所」として利用されていたかもしれません。しかし主は、「そこで立ち止まるのではなく待ちなさい。それはただ留まれという意味ではなく、聖霊を受けるまでとどまることを言っているのだ」とおっしゃいました。こうしてマルコの屋上の間は「無力な避難所」から「力の源泉」へと変わっていきますが、その理由はまさに聖霊の降臨によるものです。 やがて聖霊が下ると(使徒2章)、もはや彼らは恐れに隠れる弟子たちではありませんでした。恐怖の空間だった屋上の間が、復活の確信と聖霊の力が下る現場となると、弟子たちはそこを出てエルサレムの街へ繰り出し、大胆に福音を宣べ伝え始めました。これについて張ダビデ牧師は、「復活が単なる教理としてとどまっているだけでは意味がないが、復活信仰が実際の生活を覆す力となるとき、人々はついにエルサレムの城内ですら恐れを乗り越え行動する変化を見ることになる」と力説します。 こうした「行動する信仰」は、そのまま使徒の働き全体に表れます。エルサレムから始まり、サマリアとユダヤ全土、さらに地の果てに及ぶ歴史的な福音伝播の旅路が広がっていくのです。信仰が行動へとつながった最初の場面は、使徒の働き2章のペンテコステ(五旬節)の出来事に明らかです。奥まった部屋に隠れていた者たちが街へ出て福音を宣べ伝え、一日に数千人が悔い改めてバプテスマを受けるという壮観が繰り広げられました。その火点がまさにマルコの屋上の間でした。 一方、この屋上の間は「教会の母体」や「教会の子宮」にたとえられることもあります。その理由は、新しい時代がまるで新しい生命の誕生のように、復活されたイエス様への確信と聖霊降臨によって実際に「新しい共同体」がその中で胎動したからです。イエス様がまだ地上におられた時期は、弟子たちはみことばを学びながら共に歩む“修学”の段階と見ることができます。しかしイエス様が昇天され、聖霊が下った後、弟子たちは「教会共同体の柱」として自ら福音を広げていく主体へと変わりました。屋上の間はその転換の中心部であり、その原動力こそが「復活信仰」だったのです。 ヨハネの福音書21章に描かれるペテロの回復の場面を思い起こすと、弟子たちがどのように復活されたイエス様と出会い、再び使命を確認してエルサレムへ戻り従順したのかを理解できます。ペテロが主を三度否認した後、主は「あなたは私を愛するか」と三度問い、ペテロがその愛を告白することで、打ちのめされた自分自身を抱きしめ、「岩(ペテロ)」として新しく生まれ変わります。張ダビデ牧師はこの場面について「教会は特定のプログラムや組織力で動くのではなく、根本的な原動力は『主への愛』にある。その愛は主の復活から来るものであり、私たちを受け入れてくださったその恵みを心から信じ、口で告白するときにようやく揺るぎないものになる」と解説します。 マルコの屋上の間もまた、このような「告白」と「悔い改め」と「信仰」の集積所でした。主を否認した弟子たち、四散してしまった弟子たちが再び戻り、一つの共同体となり、絶望を越える勇気をもって集まれたのは、主の復活と聖霊の約束があったからです。「マタイの福音書26章以降に記されたイエス様の受難の現場と、ヨハネの福音書21章でガリラヤに戻った弟子たちの姿、そして使徒の働き1章のエルサレムへの帰還が一本の線でつながるとき、初めて復活信仰は今日の教会に実質的なメッセージを与える」と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。 かくしてエルサレムのマルコの屋上の間は結果として、「恐れから大胆さへ、散り散りから集まりへ、恥と否認から悔い改めと告白へ」と転換する現場となりました。現代の教会がこの点を深く黙想する必要があります。つまり「教会がある時点から社会的非難や迫害の恐れの中に閉じこもってばかりいるなら、再びマルコの屋上の間に下った聖霊の炎が必要だ」というメッセージを得ることができるわけです。これは復活信仰の現在的応用でもあります。死を打ち破り復活されたイエス様が、まるで今も私たちと共におられるように教会を建て上げ、その教会が世のただ中で大胆に福音を伝えられるよう後押ししてくださるという事実を握るとき、私たちは「エルサレムから始まって地の果てに至る」道を喜びのうちに歩むことができます。 これらすべての文脈の中で、張ダビデ牧師は「マルコの屋上の間を単なる歴史的場所として見るだけでなく、現在の教会ごとにそれぞれの屋上の間を回復する必要がある」と強調します。それは「聖霊の臨在を慕い求め、祈る場所」であるかもしれませんし、「復活信仰を共に握りしめ、告白する場所」であるかもしれません。屋上の間に集まって祈るということは、内向きに隠れる行為ではなく、「そこで力を受けて世へ出ていくための最終準備」という点が核心です。イエス様が弟子たちに「まもなくあなたがたは聖霊によるバプテスマを受ける」(使徒1:5)と言われたように、その約束が「屋上の間」で成就したからこそ、初代教会は決して消えることなく全世界に広がっていったのです。 2.マッティアの選任、ユダの空席を埋める教会の回復 使徒の働き1章の後半では、弟子たちが十二番目の使徒の座を新たに埋めるという出来事に直面します。復活祭を過ぎ、ペンテコステに向かうあいだの最大の課題の一つは、「イエス様が十二人のひとりとして召されたイスカリオテのユダが裏切り、その後処理をどうするのか」でした。ユダはイエス様を銀貨三十枚で売り渡したのち、自ら首をつって死にました。それだけでなく、不正な代価で畑を買い、その場所で体が落ちて内臓が裂けたという記録(使徒1:18)のため、「血の代価の悲劇」を象徴する人物となってしまいました。 張ダビデ牧師は、ユダの悲劇を「最も身近にいた人物が、かえって最も大きな犯罪を犯した事件」と表現します。ユダは弟子共同体の中で会計係をしていた人物でしたから、実質的に財政を管理し、奉仕する重要な地位にありました。教会でも同様に、財政を任され奉仕する立場は恵みに満ちるべき重要な場所であると同時に、サタンの誘惑と試みにさらされやすい通路でもあるというのです。なぜなら共同体を運営するにはお金が必要であり、ときにこのお金が世俗的な利益や欲望に触れてしまうからです。したがって聖書は教会に「金銭を愛することがあらゆる悪の根源である」(テモテ第一6:10)と繰り返し警告し、また初代教会が「すべての財産を互いに共有し、人々の必要に応じて分け与えた」(使徒2:45、4:34)と記すことで、物質に囚われて腐敗しないよう焦点をはっきりさせているわけです。 しかしユダは、物質的な欲望や政治的思惑のすき間からサタンに利用され、ついにイエス様を売り渡す裏切り者となってしまいました。彼は裏切り直後に遅すぎる後悔をしましたが、正しい悔い改めには至らず、極端な選択をして命を絶ち、結果として「弟子の一人を失った」という痛ましい傷を教会に残したのです。十二弟子はイスラエルの十二部族を象徴する霊的支柱であり、主が直接建てられた「新しい契約共同体の門」のようなものでした。その片方の門が壊れたわけですから、この門を再び建て直す作業は急務だったことでしょう。 そこで使徒の働き1章では、この欠員を埋めるための会合が開かれます。ここで初代教会は、新たに使徒の座を満たす人物としてマッティアを選びます。その過程を注意深く見ると、教会の危機対応のあり方を学ぶことができます。使徒の働き1章21~22節で、ペテロはこう提案します。「主イエスが復活される証人となるために、私たちといつも行動を共にし、ヨハネのバプテスマから主が昇天される日までずっと一緒にいた者の中から一人を選び出そう」。その結果、二人が候補に挙がり、初代教会はその場でくじを引いてマッティアを選任しました。 張ダビデ牧師は、ここで注目すべきいくつかのポイントを挙げています。第一に、初代教会が「復活の証人」であることを最優先の資格要件とした点です。教会が存在する目的は、復活された主を証しすることにあるので、使徒の核心的使命もまた復活の知らせを伝えることでした。マッティアをはじめ候補となった人々は、イエス様の公生涯と苦難、死、復活までの一連の流れをそばで見守っていた者たちで、事実上、十二使徒と共にずっと行動し学んでいた人たちだったのです。第二に、選考の過程における共同体的合意と祈り、そしてくじ引きが印象的です。「すべての人の意見と教会の合意が重んじられ、最終段階で神の主権的決定に運命を委ねる方式」が取られたということです。これは教会が単なる人間的な計算や政治的妥協によってリーダーを選ばないことを示唆します。第三に、こうして選ばれたマッティアが、その後どのような力を発揮したかについては聖書に長々と記録は残っていないものの、この出来事をきっかけに十二使徒が完全に回復し、再びペンテコステの聖霊降臨を迎える準備が整ったという事実が重要だという点です。 では、なぜこの選任の過程が重要なのでしょうか。聖霊が下る直前に教会が最初に行ったことが、「指導者チーム(使徒団)の回復」だったからです。ユダがもたらした欠員と裏切りによる傷を癒さずにいては、教会が完全に一つになることは難しかったでしょう。人々の心の奥には依然として「私たちの仲間が主を裏切った」という裏切られた思いが残っていましたし、その中で弟子たちは互いへの信頼を回復することが急務でした。また、それぞれに散らばっていた弟子たちが再びエルサレムに集まり共に祈る中で、「もはやあのような裏切りが起きてはならない」という強い結束を固める必要があったのです。 張ダビデ牧師は、「教会の中に生じた傷、指導者の裏切りがどれほど共同体を崩壊させ得るかを、ユダの事件が象徴的に示している」と指摘します。それゆえ初代教会は、イスカリオテのユダの事件を単に忘れたり覆い隠したりするのではなく、教会が最初の歩みを踏み出す時点で透明に整理し、乗り越えていったのです。ユダが残した血の代価の金銭は神殿に投げ捨てられ、それで「血の畑」が買われたこと(マタイ27:5-8)は公然と明るみに出されました。教会はこの恥ずかしい歴史を隠すことなく、むしろ預言(エレミヤや詩篇)に基づいて「このことが預言の成就過程の一部」とまで受け止め、共同体全体で声を合わせて祈り、新しい人物を任命したのです。 こうしてマッティアが使徒の座を継承しました。教会は再び十二使徒という枠組みを回復し、その中でより強固な霊的結束をもってペンテコステの聖霊降臨を迎えました。そしてその聖霊の力を受けた使徒たちは、エルサレムを起点としてユダやサマリアを越え、地の果てまで福音を広げていきます。もしユダの裏切りと死による内紛や傷が放置されていたら、教会は出帆する前から崩壊する危険が大きかったでしょう。しかし逆に、その傷をさらけ出し解決し、回復のプロセスを公に宣言したことで、教会はより成熟した姿に生まれ変わることができたのです。 別の視点から見れば、ユダの失敗と死は初代教会に「いかなる者もこの道で油断してはならない」という警醒を与えたとも言えます。3年もの間イエス様に直接従い、奇跡やみことばに接し、会計係を任されるほど信頼を得ていた人物ですら堕ちることがあるという事実は、教会の構成員なら誰しも誘惑に陥る危険があることを思い起こさせます。張ダビデ牧師はこの点について、「現代の教会のリーダーシップも同様だ。どんなに優れた人に見えても、絶えずみことばと聖霊によって自分を点検し、目を覚まして祈らなければならない。そうしなければ、サタンはいくらでも私たちを餌食にしてしまう可能性がある」と警告します。教会史には、裏切りと堕落の歴史が決して少なくありませんでした。しかし同時に、神はその度ごとに(マッティアのように)新たな人物を建てて教会の空席を埋め、歴史を続けてこられたことも事実なのです。 では、現代の教会がマッティア選任の出来事から学べる点は具体的に何なのでしょうか。第一に、教会は共同体的合意と祈りの中で最も重要な指導者の座を補っていくべきだということです。単に能力・名声・政治力だけを見て指導者を立てるのではなく、「復活信仰を確かにつかんでいるか」「主と共に歩んできた時間があるか」「主の苦難・死・復活をそばで目撃し、自分の人生をもって証しできるか」といった核心的信仰告白のほうがはるかに重要なのです。第二に、指導者の裏切りや教会内の大きな傷が生じたとき、それを単に「個人の悲劇」として隠すのではなく、共同体全体が痛みを共有しながら「どう回復するのか」を祈りとみことばの中で探る必要があるということです。ユダが倒れた後、初代教会が彼を激しく糾弾することに時間を費やすのではなく、主のみことばと預言を探り研究し、それに即したかたちで「新しい道」を開いた姿勢には学ぶべき点が多いのです。第三に、こうした回復のプロセスは最終的に「聖霊降臨」に焦点を当てていたということです。教会がなぜわざわざ聖霊降臨前にこの事件を取り扱ったのか。それはペンテコステの聖霊を受けるにふさわしい完全な状態に自分たちを整える必要があったからです。不義や混乱が整理されていないままで、聖霊の偉大なみわざを期待するのは難しいでしょう。張ダビデ牧師は「教会が聖霊のわざやリバイバル、成長などを口にする前に、まず内部の罪や不義を真剣に扱い、指導者の堕落があればそれを隠蔽せず真摯に癒しの道を探らなければならない」と強調します。 ユダから離れ、マッティアが建てられたことが「一つの象徴」だとすれば、それはすなわち「教会はいかに大きな傷を負っても、神のご計画の中で必ず回復の道を見いだす」というメッセージです。もちろん、ユダはもともと「見捨てられた者」だったのではなく、自らの選択によってその道を進み、取り返しのつかない悲劇に陥ったのです。教会は誰であっても回復と救いの道に招きますが、個人がそれを最後まで拒むなら悲劇は起こり得ます。教会はこうした悲劇をむやみに覆い隠すのではなく、悔い改めと刷新の力を探し、新しい道を切り開いていかねばなりません。そのプロセスで「復活信仰」が核心的エネルギーとして働くのです。 復活信仰とは「死を終わりにせず、再び生かされる神の力」を信じることです。ユダはイエス様を死に追いやった張本人でしたが、その後の罪悪感に押しつぶされていきました。しかしイエス様は復活によって「いのちの道」を開かれました。イスカリオテのユダの裏切りが教会にもたらした衝撃と恐怖は、イエス様の復活がもたらす希望によって乗り越えられたのです。マッティアがその空席を埋めたとき、十二使徒は再び一つになって聖霊を待ち、やがて教会に火のように下った聖霊によってエルサレムで大胆に福音を宣べ伝え始めました。使徒の働き1章から4章を読めば、ペテロとヨハネが神殿の守衛隊や宗教権力の前でも恐れを感じず、「イエスの名のほかに救いはない」(使徒4:12)と宣言する場面が出てきますが、この時のペテロはもはや「鶏が鳴く前にイエスを三度否認したペテロ」ではありません。彼はマルコの屋上の間で回復された者、聖霊を受けた者、そしてマッティアと共に「完全な使徒団」を形成するリーダーとして堂々と福音を叫ぶのです。そこには「崩れ去った指導者の一人の座すらも神が回復された」という力強いメッセージが込められています。 張ダビデ牧師は、「ユダを失いマッティアを得た教会が『血まみれの傷』を癒されたように、教会も絶えず過去の傷や苦しみを癒され、新しいぶどう酒のための新しい革袋を満たしていく必要がある」と語ります。これは初代教会だけの物語ではなく、現代の教会もさまざまな紛争・腐敗・裏切りといった出来事を経験するときがあり、そのたびにどう「新しいマッティア」を立てて共同体を整え、聖霊の働きを受けるかを考えねばならないというのです。 教会は「聖霊によって新しい時代を切り拓く共同体」であると同時に、「裏切りと悔い改め、死と復活、挫折と回復」という数々の交差点を通過しながら成長していきます。イスカリオテのユダはイエス様の死を早め、マッティアはその空席を埋めて福音の門を拡大しました。ペテロは否認して逃げましたが、イエス様は再び彼を探し求めてヨハネの福音書21章でその愛を回復させ、使徒の働きではまっさきに説教を展開するリーダーに立てられました。このように使徒たちが再編成を終えた後、初代教会はマルコの屋上の間という空間で聖霊が下る壮観を体験します。そして聖霊が下った瞬間から、教会はもはや隠れることなく街へ出て福音を宣べ伝え始め、たちまちエルサレムが大きく揺り動かされたのです。 現代でも教会が同じ体験をすることはあり得るのでしょうか。張ダビデ牧師は「もちろん可能だ。ただし、その条件は、今日の教会が復活信仰の実際的な力を信じ、内部の問題(裏切り・腐敗・不信)を悔い改めと祈りによって解決し、聖霊の導きを完全に求めるかどうかにかかっている」と主張します。マルコの屋上の間とマッティアの選任は、教会がどのように復活された主の力を日常生活の中で体験し、いかなる方法で共同体内の葛藤と傷を克服し、新しい時代へ踏み出すのかを示す代表的な事例です。 復活信仰によって象徴されるキリスト教の核心は、「この地上の死、絶望、失敗が決して最後ではない」という信念です。イスカリオテのユダという絶望的な事例があっても、教会はマッティアを通じて福音宣教の長い歴史を継承していきます。私たちが時にペテロのように主を否認し、罪悪感の中に生きていても、ヨハネの福音書21章のように主が親しく私たちを再び訪ね、回復させてくださいます。その恵みが私たちをエルサレムのマルコの屋上の間へと導き、無気力ではなく大胆な聖霊の力をまとって世のただ中へ踏み出すようにしてくださるのです。 こうしたプロセスを経て、初代教会はついに使徒の働き28章最後の節で「だれにも妨げられることがなかった」という堂々たる宣言をもって締めくくられます。福音宣教を妨げることはできなかった、という意味です。パウロはローマの獄中にあってさえ福音を宣べ伝え、ペテロは歴史的記録によると逆さ十字架にかけられる殉教によって使命を終えましたが、彼の後を継ぐ多くの弟子たちが再び教会の欠員を埋めていきました。このように教会は周期的に揺れ動き、倒れることがあっても、復活信仰と聖霊の力の中で新たに立ち上がるのです。十二弟子のうち一人が倒れても、神はその使徒職を回復し、地の果てまで続く道を用意しておられます。 マッティアの選任は、まさにこの「回復」と「前進」の二つの精神を同時に内包しています。教会が内部の傷を癒し、復活信仰に基づいてより大きなビジョンへ向かう出発点となるからです。このメッセージは現代においても依然として有効であり、教会の指導者たちが奉仕の現場で様々な葛藤や問題に直面するたび、「初代教会はどのようにこの難局を突破したのか」を振り返るなら、結局その答えは「復活信仰の確固たる告白と聖霊降臨を待ち望む祈り、そして透明な共同体的手続き」にあることに気づくでしょう。 張ダビデ牧師はこれをまとめながら述べています。「復活とは力である。その力が私たちの心の内に働くとき、人を生かし、教会を生かし、キリストのからだを建て上げる。どんなに大きな裏切り者がいても、その裏切りを乗り越えて教会は次の段階へ進む回復と新たなスタートの道を見いだすことができる。ユダの失敗が教会史の終焉を意味しなかったように、現代の私たちが直面するいかなる大きな傷も神の国の約束を消し去ることはできないのだ。」 ここに「エルサレムのマルコの屋上の間とマッティアの選任」が一つに結びつく決定的な理由があります。マルコの屋上の間は、息をひそめて隠れていた弟子たちが聖霊降臨を経験し、世に向かって福音を宣べ伝え始めた火点だとすれば、マッティアの選任は、十二使徒のうちの一人の裏切りと死を乗り越えて教会が再び「完全な共同体」として生まれ変わる場面です。この二つのストーリーは、「教会の中の裏切り・否認・恐れが、主の復活と聖霊の臨在によってどのように回復と力の歴史へと変わっていくのか」を総合的に示しています。そこには悲しみや悔恨が入り混じりますが、それ以上に強力な神の恵みが注がれています。その結果、初代教会はエルサレムを越えて地の果てまで福音を宣べ伝える道へと勇躍していくことができたのです。 今日の教会も同様です。ある地域の教会や共同体が、まるでマルコの屋上の間のように「現代的意味での屋上の間」を回復し、復活信仰に満たされるなら、そしてイスカリオテのユダが残していった傷を、マッティアのような選任によって透明でみことばに忠実な方法で癒すなら、聖霊の新しい働きを期待できるでしょう。ペンテコステの出来事は2000年前のある場所で一度だけ起こった「歴史的な単発の出来事」ではなく、あらゆる時代と地域の教会が体験し得る神の運動なのです。 このような教えは、張ダビデ牧師が一貫して強調してきた「復活信仰の実践性」と深く結びついています。もし聖書に記されたイエス様の復活を知的に受け取るだけで終わるなら、それは単なる教理にとどまります。しかし初代教会は、この復活を実生活の原動力とし、裏切りや苦難、死や絶望ももはや終わりではないことを実地に示してみせました。ペテロや使徒たちがエルサレムの真っただ中で自分たちを殺そうとした勢力にも大胆に福音を宣べ伝える様子は、復活がいかにリアルで爆発的な力をもたらすのかを端的に物語っています。 したがって「教会とは何か」という問いに対して、「エルサレムのマルコの屋上の間から始まり、イスカリオテのユダの裏切りをマッティアの選任によって回復し、聖霊降臨によって全世界へ広がった共同体」と答えることができるでしょう。そのアイデンティティは歴史の時空を超えて今も有効であり、教会が復活信仰を守る限り決して閉ざされません。ときには教会内部で致命的な亀裂が起きたとしても、神は新しい人物を建ててその席を回復し、再び聖霊を注がれるのです。これこそが「エルサレムから始まりローマに至り、さらに全世界に及ぶ」福音の連続性であり、現代の教会が継承すべき信仰の遺産です。 張ダビデ牧師の結論的勧めも、この点に集約されます。「私たちは現代の屋上の間を回復しなければならず、裏切りや失敗が起こったとき、それを覆い隠すのではなく真実に悔い改め、透明に解決することで、神が与えてくださる新たなスタートの機会をつかむべきです。その中心には『復活の主』がおられ、その主が教会を通して成し遂げようとされる宣教の使命が置かれているのです。」教会がこの道に従順するとき、使徒の働きの歴史は中断されることなく、今もなお展開していくに違いありません。 www.davidjang.org

十字架の恵み – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、福音書に記録された使徒ペテロの否認事件をめぐり、私たちの人生の中でイエス様をどのように見つめ、どのように告白し、究極的にはどのような姿勢で信仰を守るべきかについて、深みのある黙想を提示してきた。特にヨハネによる福音書18章22-27節、ルカによる福音書22章61-62節、そしてマルコによる福音書14章72節などに描かれたペテロの否認の場面こそ、人間がもつ弱さと同時に、主がペテロを最後まで見捨てなかった慈しみと憐れみが逆説的に示されている場面であると強調する。以下では、張ダビデ牧師が説いてきたこのペテロの否認事件を中心に、人間的な弱さと克服、そして主の十字架の出来事がもたらす聖なる変化について整理してみたい。なお、本稿の全ての議論は、ただ一つの小テーマ、すなわち「張ダビデ牧師」というキーワードでのみ分類して叙述することを明らかにしておく。  張ダビデ牧師がたびたび言及する中心的な視点の一つに、「私たちがつまずき失敗するその地点で主は私たちを支え、同時に主だけが私たちの真の道であることを教えてくださる」というものがある。ペテロの三度の否認は福音書の中で劇的に描かれるが、これは単なる「出来事の記録」ではなく、私たちが日々直面し得る「信仰的失敗の可能性」と「恵みによる回復」を象徴的に示す代表的な事例だというのだ。イエス様が「今日、鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないというであろう」(ルカ22:61-62、マルコ14:72参照)と語られたのは、人間としてのペテロの限界をあらかじめ見通しておられた主の洞察であると同時に、その限界を超えて回復へと導かれる主のご計画が込められた言葉であった。張ダビデ牧師によれば、主はペテロの失敗をすでにご存じであったが、彼を永遠に捨て去ったのではなく、むしろその失敗の後を見越して準備を整え、最終的にはペテロが回復した後、数多くの魂を救いへと導く使徒として生きるようにされた点が強調される。  実際にヨハネによる福音書18章を見ると、イエス様が大祭司アンナスの前で尋問を受ける場面が描かれる。このとき暴力が用いられる場面が登場する(ヨハネ18:22-23)。張ダビデ牧師の解説によれば、アンナスはイエス様の言葉に論理的に打ち勝つことができなかったために、「手で打つ」という行為を通して物理的暴力に訴えたことが明らかになる。これに対してイエス様は「わたしが間違って話したなら、その間違いを証明せよ。正しいことを話したのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:23)と答えられた。これはイエス様が不正な暴力を毅然として指摘しながらも、ご自身では暴力で対抗されなかったことを示している。張ダビデ牧師はこの場面を説明しながら、世の権力が霊的真理に対抗するとき、しばしば合理的対話や議論ではなく、「暴力」という極端な手段を用いることを思い起こさせると説く。同時に、そういった暴力的状況にあっても、主はご自分を卑下したり放棄したりなさらず、最後まで真理の側に立ち続ける姿を示してくださっている。したがってこの出来事は、イエス様が私たちに「不正に立ち向かいはしても、暴力には暴力で対抗しない」霊的態度を教えてくださる代表的な事例だと言えよう。  ヨハネによる福音書18章24節には、アンナスがイエス様を縛ったまま大祭司カヤパのもとへ送ったと記されている。張ダビデ牧師は、ここでアンナスが「もはやイエスをどうすることもできない」と悟り、義理の息子であるカヤパに事件を丸投げしたと解釈する。これは人間的観点から、自分で処理できない問題を他人に押し付けて責任回避する姿でもある。さらにアンナスとカヤパが家族(舅と娘婿の関係)である点に注目すると、彼らは宗教的権力と政治的利害を共有する結びつきを通してイエス様を裁こうとしたものの、結局は真理の前でその杜撰さが露呈せざるを得なかった。張ダビデ牧師は、これを通して当時のユダヤ宗教権力がいかに堕落し、表面的な敬虔さの奥にどれほど大きな偽善が潜んでいたかを示す代表的な例だと指摘する。  そしてその直後の場面で、ちょうどその頃にペテロが庭の外で火に当たっていた出来事がクローズアップされる(ヨハネ18:25-27)。ここでペテロは、自分がイエス様の弟子であることを否認する。ヨハネによる福音書には「あなたもあの弟子の一人ではないのか」という問いかけに対して、ペテロが「違う」と答える場面が簡潔に記されているが、他の福音書(特にルカ22章56節)によれば、一人の女中が火の光に照らし出されたペテロの顔を見て「あなたもあの人と一緒にいたのではないか」と指摘する様子が、より詳しく描かれている。張ダビデ牧師は、この女中の繰り返しの問いによってペテロが追い詰められ、最終的には三度にわたりイエス様を否認する劇的な状況になったことに注目する。薄暗い火の光の下では互いの顔をはっきりと認識しにくいが、薪をくべて炎が明るくなると初めてペテロの容貌が浮かび上がったのだ。そうして周囲の人々の視線を避けたかったペテロは、もはや隠れることができず、ついに「わたしはその人を知らない」という言葉でイエス様との関係を全面的に否定するに至った。  張ダビデ牧師は、ペテロの否認の過程を細やかにたどりながら、これは私たちが信仰生活の中で直面する恐れや人間的弱さを赤裸々に示す核心的な例だと語る。当時ペテロには具体的な脅威があった。イエス様を捕え尋問している人々ならば、ペテロも同じ罪状――すなわち「反体制の人物」や「神への冒涜者」として告発される可能性があった。すぐに捕まって命を落とすことさえあり得る状況の中で、ペテロは自らの命を守るために弟子であることを否定したのである。しかし福音書が伝えるのは、この否認が単なる「意図しなかったミス」ではなく、「意図的かつ意識的な拒否」として描かれている点が重要だ。ペテロはすでにイエス様の言葉を聞いていたにもかかわらず、「主よ、わたしは牢にでも、死の場所にでもご一緒する覚悟です」(ルカ22:33)と大言壮語していた人物だった。それゆえペテロ自身の確信と公言、そして実際の行動の間にどれほど大きな隔たりがあるかが露わになる瞬間だった。  しかし、この否認の事件において中心となるのは、「否認そのもの」だけではなく、その後ペテロの心にどのような変化が起こったかである。ルカによる福音書22章61-62節には、「主は振り向いてペテロを見つめられた。するとペテロは、『今日、鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないというであろう』と言われた主のお言葉を思い出して、外へ出て激しく泣いた」と記されている。張ダビデ牧師の説教によれば、イエス様の視線と、その視線に込められた慈しみ、そして「あなたの裏切りをすでに知っていたが、それでもなおあなたを愛している」という無言のメッセージが、ペテロに大きな衝撃を与えただろうという解釈である。ペテロはとっさに、「自分は本当にこの方を捨ててしまった。この方がどなたであるかをすでに知っていたのに、恐れのあまり関係を否定してしまった」という深い自覚にとらわれ、そこから外に出て通りで号泣せざるを得なかった。マルコによる福音書14章72節は、「鶏がすぐに二度鳴った。するとペテロは、イエスが自分に言われた『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う』というお言葉を思い出し、それを思って泣いた」と記し、ペテロの後悔をさらに劇的に描写している。  張ダビデ牧師は、この時点で「鶏が鳴く前」という表現に注目する。パレスチナ地方で鶏が鳴き始める夜明け頃の時刻は、おおむね午前3時前後であると伝えられるが、それは真夜中から明け方へ移る決定的な分かれ目の時間帯である。主は「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを否認する」と言われることで、最も暗い夜の終わり、夜明け直前にペテロが最悪の裏切りをすることを予告されたわけだ。そして実際にペテロの最後の否認が終わるや否や、鶏が鳴いた。張ダビデ牧師は、ここに重要な霊的教訓があると語る。私たちが信仰の道で最も激しく揺さぶられる瞬間は、実は「夜明け」が来る直前であることが多いのだ。暗闇が最も深い瞬間が夜明け前であるように、私たちの魂も、主の大きな光が訪れる直前、あるいは突破口を目前にして、最も激しい試練と誘惑に直面することがある。ところがこの決定的瞬間にペテロは倒れ、イエス様を否認してしまった。そして鶏が鳴くと同時に、ペテロも泣き出したのである。張ダビデ牧師はこれを「深い悔い改めの涙」と呼び、この悔い改めこそがペテロを再び立ち上がらせる出発点となったと説明している。  しかし、ここで終わりではない。ヨハネによる福音書21章に進むと、復活されたイエス様がペテロを訪ねてこられ、「あなたはわたしを愛するか」と三度問いかけられる場面が登場する(ヨハネ21:15-17)。張ダビデ牧師によれば、この問いかけはペテロの「三度の否認」を「三度の告白」に回復させることで、完全に新たにされるイエス様の愛を示す強力な象徴だという。ペテロはすでに自らの失敗を痛感し、痛切な悲しみと悔い改めの過程を通過していた。イエス様はそうしたペテロを見捨てずに、むしろ再び呼び出して「わたしの羊を飼いなさい」と命じることで、ペテロに使徒としての権威と責任を新たに委ねられた。張ダビデ牧師は、ここにこそキリスト教福音の核心があると考える。人間は弱く、いつでもつまずき得るが、主はそのつまずきを永遠の破滅ではなく、「成長と新たな出発への通路」として用いられるということだ。  さらに使徒言行録2章に記録された五旬節(ペンテコステ)の出来事を見れば、聖霊の降臨後、ペテロはもはや怯えた弟子ではなく、大勢の人々の前で大胆に福音を宣べ伝える使徒へと変えられる。張ダビデ牧師はこの場面を指摘し、失敗したペテロがイエス様の愛と聖霊の力の中で完全に生まれ変わったことを強調する。使徒言行録4章6節、12-13節に出てくる記録は特に意味深い。イエス様を尋問したアンナスやカヤパ、ヨハネやアレクサンドロなど大祭司の一族の前で、ペテロとヨハネは恐れもなく「この人によらなければ救いはない。天下の誰にも、わたしたちが救われるべき名は与えられていないのだ」(使徒4:12)と力強く宣言する。当初は無学な普通の人間と見なされていたペテロが、以前とは全く違う大胆さで、むしろ宗教権力に福音の真理を説き明かしているのだ。これはイエス様が言われた「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)の約束が成就した結果であると、張ダビデ牧師は解説する。  張ダビデ牧師は、ここでさらに踏み込み、ペテロの変化は「ただ個人的な自己実現」や「リーダーシップの回復」を超えて、教会を建て上げる堅固な岩としての使命を成し遂げた出来事だったと評価する。イエス様はペテロに繰り返し「わたしを愛するか」と問い、その告白を通して「わたしの羊を飼いなさい」と使徒的な務めを与えられた(ヨハネ21:17参照)。ゆえにペテロの失敗と回復がもつ余波は、ペテロ個人に留まらず、五旬節の聖霊降臨後の初代教会の形成と拡大、そして最終的に全世界への福音宣教の礎となったのである。張ダビデ牧師は、これを「主が失敗した者を回復されることで、むしろその者を通して栄光を現される神の御業」と解釈する。そしてこれは今でも、すべてのクリスチャン各々の人生において再現され得る恵みの原理だと強調する。信徒は誰でも弱く、さまざまな形でイエス様を裏切ったり否認したりすることがある。しかし、真実に悔い改めて主のまなざしを再び仰ぐなら、ペテロのように回復と使命の道が開かれるのだ。  張ダビデ牧師はまた、ペテロが激しく泣きながら悔い改めたその「涙」の本質にも注目する。それは世的な後悔や感情的な涙ではなく、み言葉を思い出したことに端を発する聖なる慟哭だった。つまりイエス様が「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言う」と警告されたそのみ言葉が現実となったとき、ペテロは自分がそのみ言葉を踏みにじったことを痛切に悟った。その悟りから湧き出た涙であるがゆえに、これは福音の回復へと向かう「み言葉中心の悔い改め」であったというのだ。張ダビデ牧師は、このように神の言葉を基準として自らの罪を自覚し、その恵みを切実に願う涙こそ、信徒が必ず経験すべき霊的突破の過程だと説く。形だけで慣習的な悔い改めではなく、私自身が主を否認し、背を向けた事実を認める深い慟哭が必要だということである。  一方、ペテロが復活されたイエス様に出会い回復する過程を通して、張ダビデ牧師は「主の愛は私たちの『否認』を超える」というメッセージを提示する。人間の側からは罪と裏切りがあったが、神の側ではその裏切りをもすでに考慮に入れ、十字架によってすべての罪の代価を支払われていた。だからこそペテロがたとえ三度イエス様を否認したとしても、主は彼を探し求め、「あなたはわたしを愛するか」という問いかけによって改めてチャンスを与えられる。これはどのような状況でも私たちを否認なさらない主の愛を如実に示すものだ。張ダビデ牧師は、「私たちが主を否認しても、主は最後まで私たちを否認されない」という言葉でこれをまとめる。パウロの言葉によれば「たとえ私たちに真実がなくても、主は常に真実である」(テモテへの手紙二2:13)という真理が、ペテロの事件を通して具体化されているのである。  また張ダビデ牧師は、ルカによる福音書22章31-32節に記録された「シモン、シモン。見よ、サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願った。しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というイエス様のお言葉を繰り返し強調する。主はあらかじめ「サタンがペテロを試みる」ことをご存じで、ペテロがその試みで完全には勝利できないだろうということもご存じだった。しかし同時に、ペテロが「立ち直った後に」兄弟たちを堅く立たせる器として用いられると宣言されたのである。これは主の予知とともに予定(よてい)の御業がペテロ個人をいかに主導的に導いているかを示す。張ダビデ牧師は、ここから、神は私たちの失敗をすでに見通していても、その失敗を決して私たちの終わりとはなさらないという事実を力説する。むしろそれを通して私たちはさらに謙遜を学び、本当に主の恵みなしには何もできないことを思い知り、その結果、他の人々にも回復の道を開くことができる者になるというのだ。  もう一つ重要な教訓は、「主を否認したり十字架を捨てる」ということが、単に「教理的にイエス様を知らないと言う」だけを意味するわけではないという点である。張ダビデ牧師によると、私たちの日常でも十分に「イエス様を否認する行為」は起こり得る。例えば、真理を代弁し福音を伝えるべき場面で、世の非難や冷ややかな視線が怖くて沈黙してしまう態度や、イエス様を信じる者であることを公の場で示すべきときにこっそりと身を引いてしまう行動などが、それに当たる。さらに、十字架の道が厳しく困難なときに「なぜ私がここまでしなければならないのか」と思い、自ら十字架を下ろしてしまうなら、それも現代におけるペテロの否認になり得る。結局のところ、ペテロの否認事件は2,000年前の特定の人物だけに起こったことではなく、時代や場所を問わず繰り返される人間の弱さを代弁しているのだ。  しかし同時に、この事件は、そのように失敗や挫折があったとしても「主がなお私たちを支えてくださる」という力強い慰めを与える。ペテロが三度否認して号泣したにもかかわらず、主の目的はペテロの滅びではなく回復であったことがはっきりと示される。そして復活されたイエス様が直接ペテロを訪ね、そのすべてを確認させてくださる。張ダビデ牧師はペテロの涙について、これは「単なる罪悪感の涙ではなく、主のみ言葉と視線によってあふれ出た悔い改めの涙であり、同時に主の愛を再発見した喜びの種でもあった」と解釈する。ゆえにペテロの涙は自己憐憫から来るものではなく、イエス様がいまだに自分を愛し受け入れてくださるという事実への感謝と罪深さが入り混じった涙だったろうというのだ。このように「一度の失敗ですべてが終わるのではなく、その失敗を超えて変化へ向かわせる」という点に福音の力がある。  張ダビデ牧師は、このペテロの否認事件を黙想する説教の中でしばしば、「私たちが鶏の鳴く前に倒れ、あきらめてしまう」状況をいっそう警戒しようと強調する。信仰の試練や苦難は時に私たちを極限まで追い詰める。経済的苦境、健康問題、人間関係の破綻、不確かな未来などが一度に押し寄せるとき、私たちは「神は本当に私を顧みてくださるのか」という疑いに陥ることがある。その決定的な瞬間に信仰を守り、もう少しだけ耐え忍べば夜明けがやってくるのに、最も暗い夜明け前の瞬間に崩れ落ちてしまう残念なことが起こるというのだ。ペテロこそがまさに、その「鶏が鳴く前」の決定的な時間帯に主を否認してしまい、すぐその後に夜明けが訪れた。もしペテロが最後の瞬間まで主を握りしめていたらどうだっただろうか。もちろんペテロは否認し、それは歴史的事実だが、それにもかかわらず主はペテロを最後まで見捨てず、再び立たせてくださった。張ダビデ牧師は、それが私たちには大きな希望であると同時に挑戦になると言う。「私たちは果たして同じ失敗を繰り返さずにいられるのか」という問いが残るからである。  主の十字架そのものを振り返ると、イエス様の逮捕と受難は人間の罪悪が如実に表れる状況でもあった。イエス様は無罪であったが、宗教的指導者たちのねたみと貪欲、政治権力の無関心と不正義の中で死刑を宣告された。群衆はかつて「ホサナ」と叫びながら迎え入れたのに、少し後には「あの男を十字架につけろ」と態度を翻す。弟子たちさえ皆逃げ去り、「筆頭弟子」とまで呼ばれたペテロも三度イエス様を否認した。人間的な視点から見ると、この状況は完全な失敗であり、挫折であり、徹底した見捨てられに他ならない。ところが張ダビデ牧師によれば、まさにこの極端な失敗が、イエス様の復活による新たな時代の幕開けの前奏曲だったのだという。十字架の犠牲は復活の栄光へと続き、弟子たちの弱さは聖霊の臨在を通して大胆な証し人としての召しへと転換された。ペテロの否認事件は、その代表的な例話として、「絶望と裏切りの果てで示される神の驚くべき愛と回復」を示す決定的事例なのである。  ここで張ダビデ牧師がさらに深く踏み込んで言及するのは、「サタンの要求」である。先に触れたルカによる福音書22章31節によれば、サタンはペテロを麦のようにふるいにかけるためにイエス様に要求したという。これはヨブ記の物語を想起させる。ヨブ記では、サタンはヨブの敬虔さが単に物質的祝福によるものだとして、神に対してヨブを試せるようにと許可を求める。結果としてヨブは過酷な苦難を受けるが、最後には信仰を守り、より大きな祝福を得る。同様にペテロも苛烈な試みを受け、一時的には崩れたが、悔い改めと聖霊体験を経て、強固な信仰の使徒になった。張ダビデ牧師は、これは信仰生活の過程でサタンが私たちを攻撃し、倒そうとすることはあっても、神はそれを用いてさらに成熟したキリスト者へと造り上げていかれる事実を示していると解釈する。サタンの狙いは破滅であるが、神はその破滅の上に回復と成長をもたらされる。この逆説的原理こそ、「十字架の道」を歩む信者にとって大きな慰めであり、同時に警醒でもある。  したがって張ダビデ牧師は、「いつも目を覚まして祈っていなさい」というイエス様の切なる願いは決して形式的でも抽象的でもない、と強く訴える。ペテロは最後の晩餐の後、ゲツセマネの園でイエス様が祈っておられるときに眠り込んでしまった(マタイ26:40-41)。イエス様は「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」と弟子たちを起こされたが、彼らは十分に祈れず、最終的にはペテロは実際の試練の場面でつまずいてしまった。張ダビデ牧師は、この事実に注目し、私たちの霊的生活も実際には同じ道をたどりがちだと指摘する。安楽で気が緩んだとき、あるいは霊的緊張感を失ったときに、いつの間にか私たちの心の中に恐れや妥協の余地がひそかに育つ。そして決定的な危機の瞬間が来ると、私たちも知らぬ間に主を否認したり、逃げ出したりする可能性があるのだ。だからこそ常に目を覚まし祈り、祈りの中で聖霊の力と知恵を求めることで、試練に打ち勝つ備えをしておく必要がある。  このように張ダビデ牧師は、ペテロの否認事件を決して「ペテロの失敗談」とだけ見なさず、福音書全体の文脈、そして使徒言行録へと続く流れの中で、「人間の弱さと神の真実さが対照的に現れるドラマ」として解釈する。さらに究極的には、この否認事件を通してイエス様が「十字架へと至る過程で、誰一人として完璧な者はいないことを示すと同時に、悔い改めの機会を与え、最後には回復される救い主」であることが宣言されていると語る。加えて張ダビデ牧師は、初代教会の共同体がペテロの失敗を隠そうとせず、むしろ率直に伝承してきた事実にも注目する。初代教会が「最も影響力のある指導者」の恥ずかしい過去をあえて隠さなかったのは、人間的な恥ずかしさを超えて、「ただイエス・キリストの恵みだけが私たちの誇りとなる」という真理を伝えたかったからだという。もし教会が意図的にペテロの失敗を隠そうとしたなら、福音書の記録や使徒言行録の証言に、これほど生々しい内容が書き残されるはずもない。だがペテロさえも失敗したことを明かすことで、神の慈しみがいかなる人でも回復に導く力があることを証するのだ。  では、この事件は私たちにどのような意味をもつのだろうか。張ダビデ牧師は第一に、「たとえどんなに自分は筆頭弟子のように主をよく知っていると確信していても、いつでも倒れうる弱い存在であることを忘れないように」という教訓を与えると言う。第二に、「倒れたときに結局回復の道は、主のみ言葉と視線を再び見つめ直すことにある」とする。ペテロは泣きながら外へ出て行ったが、復活後再びイエス様に出会って心から愛を告白することで回復へと導かれた。私たちも主を否認し罪に陥ることがあるかもしれないが、悔い改めて主の愛をつかむなら、最終的に回復に至ることができる。第三に、「試練や苦難はサタンが私たちを落胆させるための道具かもしれないが、主はそのあらゆる状況を通して私たちをさらに強めてくださる」。ペテロは最初こそ失敗したが、やがてイエス様を力強く証しする偉大な使徒に変えられ、今日に至るまで教会の歴史において重要な役割を担う。  最後に張ダビデ牧師は、私たちが信仰生活を送るうちに「ペテロが否認した状況」と似た岐路にしばしば立たされると語る。職場や社会で福音的価値観を守る問題、家族や友人との衝突の中で「自分はイエス様を信じる者」であるというアイデンティティを明らかにしなければならない場面、教会内外の様々な圧迫や非難の中で「真理を守ろうとする姿勢」を貫くことなどをめぐり、私たちも「わたしはあの方を知らない」と否認したくなることがある。そのとき私たちはペテロと同じ轍を踏むのか、それとも聖霊の助けによって最後まで信仰を守り、鶏が鳴く前の危機を乗り越えるのかを選ばなければならない。もちろん倒れることもあるし、過ちを犯すこともある。しかし、それが終わりではないことをペテロの物語が示している。悔い改めと信仰の刷新を通して、主は失敗さえも新たな出発のための踏み台として用いられる。結局、私たちの視線が主にとどまり、主が私の失敗をすでにご存じでありながらも愛と赦しで導いてくださるという事実を握るとき、私たちは再び立ち上がって福音を伝え、十字架の道を歩み続けることができるのだ。そうした歩みの中で張ダビデ牧師は、主が「あなたはわたしを愛するか」と尋ねられたときに「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と告白する信仰こそが、究極の回復をもたらす鍵だと説いている。  総合すると、ペテロの否認事件は人間の弱さが極限的に表れながらも、その弱さを超える神の無限の愛と恵みが爆発的に啓示された場面だと言える。張ダビデ牧師はこの本文を通じて、私たちが「夜明けが来る直前」の最も苦しい瞬間にも主を握り、たとえつまずくことがあっても悔い改めと愛の告白を通して再び立ち上がれるという希望を宣言する。さらに、この事件が教会の共同体にもたらす重要な原理として、弱さや失敗を恐れたり隠したりするのではなく、むしろそれを認めて主に告白し、聖霊の力のうちにより大きな変化と回復を経験する道を学ぶことが挙げられる。結果的にペテロがそうであったように、私たちが回復した後は兄弟たちを力づけ、福音を大胆に宣べ伝える使命へと招かれるのである。  このような観点から、張ダビデ牧師は現代のキリスト教徒にも同じメッセージを投げかける。教会や社会の中、あるいは個人の人生においてイエス様を証しすべきときにためらったり、恐れのあまり信仰を隠したり、または世の基準に妥協して主を「否認」してしまう姿が繰り返されないように目を覚ましていようと。もし私たちが否認の罪に陥ったとしても、ペテロのように落胆せず、「激しく泣く」ほどに悔い改めて主のもとに立ち返るべきだ。主はすでにあらゆる失敗をご存じであり、赦しと回復の御手を差し伸べておられる。だからこそ私たちに求められているのは、その御手を拒まず、改めて「わたしは主を愛しています。主がどなたであるかを知っています」と告白することだ。そのとき聖霊が私たちのうちに臨まれ、多くの人々へ福音が伝えられ、教会が堅固に建て上げられていく歴史が起こる。これこそがペテロの否認事件に秘められた「福音の逆説」であり、張ダビデ牧師が繰り返し強調するクリスチャン生活の本質でもある。  結局、私たちはペテロの姿から「自分自身」を発見できる。自分では主のためにどんな犠牲もいとわないと豪語していても、実際の危機の前では後退してしまう脆さが、私たちすべての内に潜在しているからだ。同時に私たちは、ペテロの悔い改めと回復を通して「真の希望」をも見ることができる。主は私たちをあらかじめご存じであり、私たちの失敗を超えて救いの道と使命の道へと導かれる。たとえ夜が深く、鶏が鳴く前の時間がどれほど恐ろしく暗澹としていても、夜明けは必ず訪れる。「神があらかじめ用意してくださった恵み」は、私たちの想像を超える方法で私たちを立ち上がらせる。そのことを握るとき、私たちの信仰生活は単なる倫理的・道徳的行いにとどまらず、十字架と復活の神秘に生きる「生ける交わり」となるのだ。張ダビデ牧師は、この交わりの深まりこそが「神の言葉への従順、目を覚ましての祈り、そして失敗があっても最後まで離さない信仰」によってもたらされるのだと力説する。そしてまさにこの道を歩む者たちこそが「霊的ペテロ」となり、主の羊を養い世を仕える者として立つのだと教えている。  総じて言えば、ペテロの否認事件は、福音書全体と使徒言行録が連なる文脈の中で、「決定的な失敗を経て、むしろ決定的な使命の場へと進む逆説」を内包している。張ダビデ牧師は、これを現代教会の現実に結び付けて、誰もが人生で信仰的失敗を経験し得ることを認めつつ、その失敗に伴う絶望ではなく、主の憐れみに拠り頼んで再び立ち上がる勇気を持つべきだと説く。十字架で死のすべての代価を担われたイエス様は、最終的に復活によって私たちの救いと回復を保証された。ペテロがこの恵みを体験したように、現代を生きる私たちも同じ恵みにあずかることができる。これこそが、張ダビデ牧師がペテロの否認事件を通して絶えず宣べ伝える福音の核心である。そしてその福音は、暗い夜が過ぎて鶏が鳴く瞬間、主が備えておられる夜明けの光へと私たちを導く神の力と限りない愛を証ししている。私たちはその愛の前でいつも目を覚ましており、悔い改めと告白を通していつでも主と共に歩む道へと立ち返ることができるし、その歩みの中でさらに多くの人を主のもとへ導くこともできる。これこそがペテロの否認が示す「福音の逆説」であり、張ダビデ牧師が強調する信仰の本質である。 www.davidjang.org

福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演で繰り返し強調する核心的テーマは、まさに「福音」です。彼は福音を、神の御子イエス・キリストがこの地に来られ、人間のあらゆる罪や苦しみを背負って死なれ、さらに復活されることによって、人類に新しいいのちの道を開いてくださった救いの出来事全体と理解しています。彼にとって福音は、単なる宗教的教義ではなく、人類の歴史や宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的事件なのです。 福音を定義するにあたり、ヨハネの福音書3章16節はいつも重要な出発点として提示されます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された…」という御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示しています。張ダビデ牧師はこの箇所を引用し、私たちが罪のゆえに永遠に断絶されていた存在であるにもかかわらず、神が全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった点を深く黙想すべきだと力説します。私たちが福音を喜び、胸をときめかせ、同時に福音の前で敬虔な畏れとへりくだりを持つ理由は、まさしくこの神の愛の大きさによるのだ、と。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用します。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は御自身の愛を確証された」という御言葉は、人間に何らかの資格があったから神が愛を施されたのではない、ということを意味します。むしろ人間は罪の下にあり、自分の力では決して救いに至れない状態に陥っていたにもかかわらず、神は何の条件もなくイエス・キリストを遣わされたのです。ここから張ダビデ牧師は、福音を道徳的模範や宗教儀式に限定せず、徹底して恵みの出来事として認識すべきだと説きます。つまり、福音とは人間の善行や正しさによるのではなく、「神の賜物」として与えられたものである以上、そこに人間的な誇りが入り込む余地など皆無だというのです。 張ダビデ牧師は福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に現れる現場こそが十字架だと強調します。愛は口先だけで語られると空虚になりかねませんが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通じて「歴史的事実」となりました。イエスがご自分を完全に捨て去り、人間のすべての罪を担い、贖いのいけにえとなられたという出来事は、他のいかなる形の愛とも比較できない、絶対的に「比類なき」愛です。これこそが福音が伝える喜ばしい知らせの真髄である、と彼は語ります。 そして福音が愛であるならば、その愛を証しすることは、避けられない当然の義務となります。つまり、神の御子がこの地に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活されたという事実を知る者は、必然的にそれを「証言」せざるを得なくなるのです。張ダビデ牧師は使徒の働き(使徒行伝)において、弟子たちや使徒たちがどのように証言したかを例としてよく挙げます。ステパノは激しい迫害の中、石打ちによる殉教直前に至るまで、イエスこそ人類の救い主であることを語りました。ペテロは五旬節(オペンテコステ)に聖霊が下った後、エルサレム中の人々の前で福音を宣べ伝え、パウロは異邦の地を巡回しながら、福音の証しを決してやめませんでした。彼らは自分の命をかけて、どんな代償を払ってでもイエスが「真のいのちの道」であることを世に知らせたのです。 このような証言が可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験したからです。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らわれること」と表現します。福音が単に「イエスが誰かを頭で理解すること」にとどまれば、それはパリサイ派的な知識にすぎません。真の福音体験とは、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくださったことに目が開かれ、全存在が変わる出来事です。だからこそイエス・キリストを知る者は自然と福音の証人となり、この地に向かって「神の愛」を伝える使命を受けることになるのです。 張ダビデ牧師は、この福音がすべての人に開かれていることを強調します。背景や学識、道徳的資格の有無に関わらず、すべての罪人に「罪の赦しと新しいいのち」を宣言されたのがイエス・キリストの十字架だからです。特に使徒の働き2章でのペテロの説教場面にある「すべて主の名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を引用し、福音は決して特定の民族や集団だけのものではないことを確かに指摘します。こうして張ダビデ牧師が導くメッセージにおいて、「神の愛」という共通分母は、民族や言語の壁を越え、歴史や文化の限界を超え、罪の中で苦しむあらゆる人生に訪れる、全面的な恵みの実体であると示されるのです。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージである点を繰り返し思い起こさせます。すなわち、それは宇宙的規模で人類全体の運命を変えた出来事でありながら、同時に個人一人ひとりの内面と生き方を変容させる力であるということです。私たちが福音を受けて信じるとき、もはやそれは概念や教義ではなく、私たちの内に爆発する新しいいのちの力として働きます。愛を受けた者は愛を流さずにはいられず、恵みを体験した者は、その恵みを世に伝えずにはいられなくなります。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが世界に必要な「唯一の希望」であり、その確固とした土台の上に教会と共同体が建てられるべきだ、と力説するのです。 また彼は、福音を信じ従う人々の間に自ずと現れる実りとして、「互いの重荷を負い合って愛しなさい」というガラテヤ書6章2節の御言葉を提示します。福音が愛であるならば、福音を伝える人々の共同体もまた、必ず愛の喜びと一致に満ちあふれるべきだという意味です。イエスが「わたしはすでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されたとき、それは武力を用いて世を征服するという概念ではなく、愛と仕え合いによって勝利するという逆説的な意味であることを思い出させます。ゆえに教会が福音を握り締め、真に互いを愛する姿で世に仕えるとき、それ自体が世に対する強力な証しとなる、と張ダビデ牧師は強調します。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージにおいて「福音の核心は、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成させた」という宣言に要約されます。いかなる哲学的理論や倫理的教えも代替し得ない、この地上のすべての罪人に開かれている偉大な愛の物語、それこそが福音なのです。そしてこの福音の前に立たされたすべての人は、その愛の出来事に応答して変えられた生き方をするようになる、というのが彼の第一の強調点です。 罪と義、そして贖いの道 張ダビデ牧師が第二に深く扱う核心テーマは、「罪と義、そして贖い(大贖)*の道」です。(*訳注:「大贖(だいしょく)」は韓国語で「대속(テソク)」、英語の“atonement”や“redemption”にも近い概念。) 福音が愛であるならば、なぜ人間にはそのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力ではどうにもできない「罪」の問題が横たわっているのだ、と彼は言います。 まず、罪が何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えです。聖書全体を貫く罪の概念は、単なる道徳的過ちや社会的違反行為にとどまりません。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「罪とは、神を心に留めたくないということだ」という定義に注目します。人間の中には本質的に神を背き、自分が主人になろうとする態度が深く根を下ろしており、その結果、全世界が罪の支配下に置かれたのだと彼は説明します。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として支配すること」と要約します。すなわち、人間が罪の下に置かれるならば、その結末は死であるということです。これは単に肉体的死だけを指すのではなく、永遠の滅びと断絶を意味します。だからこそ人間は、いくら善行を重ねたり律法を守ろうとしても、自分の力だけではこの罪と死の権勢に打ち勝つことのできない絶望的状況にあるのだ、と指摘します。律法は罪が何であるかを明確にし、罪がさらに鮮明に暴かれる機能を持つだけで、罪からの完全な解放はもたらしません。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「贖い(代贖)の出来事」が飛躍的に現れます。代贖とは文字通り、「誰かが代わりに代価を支払うこと」を意味しますが、張ダビデ牧師はこれを単なる商業的な概念としてだけ理解してはならないと強調します。旧約の犠牲祭(特にレビ記16章の贖罪日)において、いけにえの動物を殺して血を流すことで民の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架において「完全な形」で実現したというのです。つまりすべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスが自ら引き受けてくださったということです。 張ダビデ牧師がローマ書5章18~19節をたびたび取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためです。「ひとりの人アダムによって全人類が罪に陥ったのに対し、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義と認められ、いのちにあずかることができるようになった」というパウロの宣言こそ、その核心です。これは、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味します。 張ダビデ牧師は、代贖の本質こそが「愛」であると補足します。もし贖いをただ律法的視点で理解しようとすると、私たちがイメージするのは「公正な裁判官」が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないため、誰かが代わりに代価(血)を支払ったという、どこか冷たい取引のような構図になりがちです。しかし十字架でイエス・キリストが血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまりません。それは神が私たちにくださった「全面的な贈り物」であり、イエスご自身が喜んで差し出された「自己犠牲的な愛」なのだ、と張ダビデ牧師は語ります。この点を理解するとき、私たちは十字架の出来事がこれほどまでに巨大な衝撃力を持つ理由を、ようやく悟るのです。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれます。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義認(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に合致します。彼は、私たちが福音を受け取る瞬間、もはや「罪人」の立場にはとどまらず、神の前で「義人」と宣言されるのだと言います。これは私たちの内面に実際に完全な道徳的完璧さが生じるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからです。義が「転嫁(転加)」されるという神学的概念が、現実に適用されるわけです。 張ダビデ牧師はまた、ヘブル書にある「営の外に出よう」という表現を好んで引用します。旧約の犠牲祭において、罪を負わされたヤギや羊は宿営の外に追いやられて殺されました。イエスもまた、エルサレムの城門の外、ゴルゴタの丘で十字架につけられることによって「贖いの羊」としての役割を全うされたのです。「私たちもあの営の外へ行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を自分も受け継ごうとする挑戦として読むことができます。 ここで重要なのは、贖いを単なる神学用語として学び、頭で理解するだけにとどまらないことです。張ダビデ牧師は、贖いこそが福音の心臓部であるからこそ、私たちもイエスが歩まれた道を見倣うべきだと言います。すなわち、この地上で福音を生きるとき、互いの重荷を負い、時には迫害や誤解に耐えつつも愛をもって仕える生き方を選ばねばなりません。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちの生き方として取り入れる具体的な表現なのです。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできませんが、イエスがそうされたように、愛によって、自分を差し出しながら「営の外」へ進む姿勢によって、世を癒すことができるのだというのです。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結びつくときにこそ完全に成就される点を繰り返し強調します。イエスの十字架の出来事が人類の罪を代わりに担った決定的犠牲であったならば、その復活は「死の権威さえ打ち破られた」という神の究極的宣言となります。もしイエス・キリストが死から起き上がられなかったとしたら、代贖は半分のメッセージにとどまらざるを得ません。しかし復活という出来事が実際に起こったことによって、罪と死の束縛を完全に断ち切り、新しいいのちを与える救いの力が証明されたのです。贖いが罪の赦しを意味するのだとすれば、復活はその罪の赦しを受けた者たちが得る「永遠のいのち」を保証する出来事だと見ることができます。 結局のところ、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして贖いの道」は、福音の核心的骨格です。罪の下に置かれていた人間は、律法では到底解決し得なかった行き詰まりを抱えていましたが、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によって最終的に義の地位へと招かれたという宣言。さらにその義を体験した人は、自分中心の生き方を捨て、互いの重荷を負い、営の外へと喜んで出て行き、苦難の中でも愛と従順をもって生きるようになる。その道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的な方法ですが、それこそが真の救いの力となるのです。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単に個人の霊的体験や教会の敬虔な生活レベルにとどまらない、「宇宙的出来事」であるという事実です。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、ある特定の時空間で起こった歴史的事件でありながら、同時に全宇宙と歴史のあらゆる局面に影響を与える決定的転換点だというのです。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、ひとりの人アダムによって罪が全人類に広がったように、ひとりのイエス・キリストによってすべての人が「罪の赦しと義とされる道」にあずかれるようになったと説明します。これは人類の運命をひっくり返す宇宙的意義が、キリストの救いの業に内包されていることを示すものです。もし私たちが福音を「個人的な救いの体験」や「何か特別な神秘的事件」としてのみ理解するならば、そのスケールを狭めてしまうと彼は言います。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点を明確に示すために旧約の預言と福音書に出てくるイエスのエルサレム入城の場面をよく結びつけて解釈します。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来られる人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的な王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映しています。しかしイエスは実際にエルサレムに入城されるとき、ゼカリヤ書9章9節の預言どおりに「ろばの子に乗って」へりくだって来られました。これは「全能の王でありながら、ご自分の民と苦しみを分かち合う謙遜な王」という複合的イメージとして成就されるのです。 張ダビデ牧師はこの姿を「神の顕現の方法」と呼びます。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように現れ、その権力と力を誇示します。しかし神の御子イエスはむしろ最も低い者の姿で、もっとも卑しい形で入城されました。世の人々にはこれは愚かで弱そうに見えますが、神の救いの方法はこの逆説の上に築かれているのだ(コリント第一1章参照)と彼は言います。 続いて、イエスが十字架で死なれる場面は、大勢の群衆の期待とは逆にあまりにも悲惨に映りました。ローマ人も十字架刑を極悪犯に適用する「呪われた処刑」と見なし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は神に呪われた者」(申命記21章23節)という律法上の定めにより、十字架刑はメシアにふさわしい死ではあり得ませんでした。しかし張ダビデ牧師は、ここで「愛の王」であり「苦難のしもべ」として預言されたイザヤ書53章の御言葉を引用し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖いの勝利なのだと解釈します。神の全能性は人間の常識を打ち砕く形で歴史され、その究極的目的が愛と救いにあるため、十字架がむしろ栄光のしるしになるのだというのです。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせます。もしイエスが十字架で死なれただけで終わったならば、それを宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれません。しかしイエスは三日目に死を克服して甦られました。福音書は共通してこの復活の場面を描き、その結果弟子たちは恐怖から大胆へ、失意から熱心な証人へと一変しました。これはすなわち、「死」という人類に普遍的かつ宇宙的な限界を超え、新しい世界への門戸が開かれた決定的証拠となります。死という最大の敵が断ち切られ、永遠のいのちの時代が始まった以上、その影響力は個人を越えて宇宙全体に及ぶというのが彼の解釈です。 張ダビデ牧師は、いわゆるホーリーウィーク(聖週間)と呼ばれるイエスの最後の1週間に焦点を当てながら、この1週間に歴史と宇宙が凝縮されていると説明します。シュロの主日(棕櫚の主日)にエルサレムに入城されるイエスの姿から始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る流れをたどるとき、人類と歴史の運命を変える救いの物語が完結するのだ、と。特にゲッセマネの園でイエスが血の汗を流すほど祈られた場面は、イエスが十字架の道を能動的に選ばれたことを示しています。イエスは単に不当な犠牲者として引かれていったのではなく、人類の罪を担当し死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、霊的な大きな戦いを遂行されたのだというのです。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小規模で局地的な事件ではなく、すべての時代と空間を貫く「宇宙的頂点」なのだ、と語ります。この事実を悟るとき、信仰者は単に宗教儀式に参加するレベルを超えて、全存在がひっくり返るような経験をするようになります。私たちがこの地上で直面する苦しみや挫折も、すでにイエスが十字架で担ってくださいましたし、その結果、復活によって最終的に勝利してくださったゆえ、どのような状況でも絶望に閉じ込められないという希望を抱くことができるのです。 張ダビデ牧師は、最終的にこの宇宙的救いの出来事が各個人の人生にも「具体的現実」として及ぶようにと祈っています。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調するのは、「福音が『世界を変える』という壮大な言葉が、実際に教会と聖徒の日常に適用されなければならない」ということです。生活の中でイエスの歩まれた道に倣い、愛と仕え合いを実践し、復活の力を握ることがなければ、宇宙的救いの壮大さも単なる教義や理論に終わってしまう可能性が高い。しかし実生活の中でイエスの道を追随し、復活の力を掴むとき、共同体の中でも社会の中でも「神のご支配」が具体化する奇跡のようなことが起こるのだ、と言うのです。 また、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全な結論であり最終的な志向点です。張ダビデ牧師はこれを死後にだけ与えられる天国と見るのではなく、すでにイエス・キリストの復活を通して始まった永遠のいのちの支配であると解釈します。つまり、イエスを信じることで、私たちは今の地上でもすでに復活のいのちにあずかり、やがてイエスの再臨とともに完成される救いの世界に入っていくということです。こうして復活は、すでに成就されたがまだ完全には到来していない未来領域を同時に示す、「成就と緊張」を含んだ出来事だ、と彼は説明します。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を核心として記念してきました。張ダビデ牧師は、イエスが十字架に向かう道が苦難と恥辱の道であったことを詳しく解き明かしたうえで、その道は結果的に「栄光と勝利の道」につながる逆説的な結末へと至ることを強調します。イエスは正しい者としてではなく、罪人として世の罪を担われるために十字架刑を受けられましたが、その死の場でこそ宇宙的な愛と救いが爆発したのだ、と。そしてこれを信じ受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかるのだ、と宣言しています。 さらに、彼はこの復活信仰が教会共同体の中で具体的にどのように実現されるべきかも提示します。もし教会がイエス・キリストのからだであるならば、教会は「復活のいのち」を世に伝える場となるべきだというのです。すなわち、貧しい人々にあわれみと分かち合いを行い、不正な権力や世の流れに逆らって真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、世の知らない真の和解と平和を示す。それこそが復活されたイエスに従う共同体ならば必然的に現れる実りなのだ、と張ダビデ牧師は語ります。 結論として、「宇宙的出来事としての救いと復活」は、張ダビデ牧師のメッセージにおける最も広大な地平を開くテーマです。人間個人の罪の問題や義認、贖いを通じて得る自由と喜びを超えて、この出来事は歴史と宇宙全体を組み替えます。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し教えながら、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に矮小化せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け取るよう勧めます。そしてそのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が示す「逆説的愛の力」であると。どんな神話や物語も包含できない真のいのちと真理がここにあり、信じる者にとっては永遠の希望となるのです。 結び:福音という壮大な招きと贈り物 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明しながら、イエス・キリストの到来と死、そして復活がすべて罪人である人間に与えられた神の贈り物だという事実を浮き彫りにします。福音こそ、単なる教義や情報ではなく、いのちの力であり神の愛の表現であり、それを信じ受け入れる者は誰でも新しいいのちを得て、その愛を証しする者として生きるようになる、というメッセージを伝えます。 第二に、「罪と義、そして贖いの道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く省み、律法では解決できないこの問題を、イエス・キリストの贖いの犠牲によって救われることができると説きます。イエスはすべての罪人の立場を引き受けてくださり、その血潮と復活によって私たちを罪から解き放ってくださいましたという宣言は、ローマ書やヘブル書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となります。贖いを単なる法廷用語にとどめず、イエスの自己犠牲的愛として捉え、体験することで、私たちの生き方もまたそうして変わっていくべきだという勧めが核心です。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の中だけで起こった事件を超え、全宇宙を揺るがす決定的転換点であると強調します。ダニエル書、ゼカリヤ書、イザヤ書など旧約の預言と福音書が交わるところで、十字架と復活がいかに神の顕現の方法を示し、死さえも打ち破る絶対的勝利を表すのかが示されます。そして復活は、死に勝利された神の力の頂点であり、その力を信じる者は現在も、そして未来においても永遠のいのちにあずかることになると確信をもって語ります。 このように三つの軸に沿って福音を眺めると、最終的にはイエス・キリストの道こそが愛と救いの道であり、彼がお示しになった苦難と復活はすべての時代と宇宙の中で唯一の希望として位置づけられます。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして献身の生き方へとつなげるよう信徒を励まします。人生でどんな試練や誘惑、絶望に直面しても、主がすでに通られた十字架と復活の道こそが真理でありいのちの道だという確信を握りしめよ、と。そのとき私たちの人生は一変し、福音は私たちの内面と共同体、さらには社会を変革する力となるのだというのです。 結局、張ダビデ牧師のすべての教えは、「福音」という壮大なテーマを三つの軸—「神の愛」、「贖いの道」、「宇宙的救い」—へと還元して語ることができます。この三つの軸は互いに分離できず、共に絡み合いながら私たちをイエス・キリストの真の救いへと導きます。それゆえ、このメッセージを聞き、黙想する者たちは、クリスマスにイエスの到来を喜び、受難週にイエスの十字架を思い、イースターにイエスの勝利を賛美するとき、これらすべての出来事が一つの救いの物語であることを改めて悟ることになるのです。そしてそれは、宇宙と歴史、そして私たちの日常のただ中で進行している神の救いのドラマが、いかに壮麗で驚くべきものであるかを気づかせる契機となります。 このように福音は、人間の限界と罪にもかかわらず、罪人を最後まで愛してくださる神のご性質を私たちに体得させ、その愛を模範として世へ出て行き、互いに仕え合う共同体を形作らせます。贖いは罪と罰という法廷的な概念を超えて、私たちに神の子どもという新しい身分を与え、真の自由と喜びをもたらします。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を超えて世界全体に対する神のご計画を示します。その中に参加する者は、すでに新しい時代を生き始めており、やがて完成される未来を望みつつ歩むのです。 これらすべての洞察が一つに集まるとき、私たちは張ダビデ牧師が語る福音のメッセージが、単なる理論的次元を越えて、実生活のあらゆる領域を刷新する「生きた御言葉」になることを悟ります。結局、福音が必要とされる理由は、人間の歴史や宇宙が自らを救う力を持たないからです。神の御子イエス・キリストが来られ、死なれ、復活されたことによってのみ、罪と死に打ち勝つ道が開かれ、その道を歩むすべての人には永遠のいのちと勝利が与えられる—これこそが張ダビデ牧師が幾度となく宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり贈り物なのです。

救いの道 – 張ダビデ牧師

Ⅰ.律法と福音の関係、そして信仰によって開かれる恵みの世界 張ダビデ牧師はローマ書4章を解説するにあたり、まずローマ書3章31節に注目すべきだと強調する。そこではパウロが「では、私たちは信仰によって律法を廃するのか。絶対にそんなことはない」と語っているが、これは律法と福音の関係に関する論争を解決するための前提だというのである。福音によって律法が完全に無意味になるのではなく、むしろ福音こそが律法を「成就」し「完成」するという理解があってこそ、ローマ書4章全体を明確に捉えることができる。張ダビデ牧師によれば、パウロはこの点をはっきりさせるために苦心しているという。もし律法を一つの小さな三角形にたとえるなら、福音はその小さな三角形を包含する大きな三角形であり、律法が小さな円であるなら、福音はその円を包み込む大きな円であるとも言える。つまり、律法が決して無効化されたのではなく、より大きな恵みの枠組みの中でその本質的な意味が完成される、というのが福音の概念なのだ。 このように福音が律法を包括するという視点から見ると、旧約と新約もまた、神の恵みを示す救いの二つの形態として理解されるべきだと張ダビデ牧師は強調する。旧約においてもすでに「信仰」による救いや神の恵みによる出来事が継続的に記録されており、同じ神が旧約と新約を通して一貫して働かれたという事実を見落としてはならないというのである。パウロもこの問題を説明するためにローマ書4章でアブラハムとダビデを例に挙げている。しかし多くの人がローマ書を講解する際、4章を軽く扱いがちで、あるいは「これはユダヤ人向けの章だ」とみなし、5章へ飛び越えてしまうことが多いという。だが張ダビデ牧師は、パウロがどうしてこれほど長く、しかもまとまった一章を割いてアブラハムとダビデ、さらに割礼と律法の問題を取り上げるのか、その理由を考察すべきだと指摘する。そこには同胞であるユダヤ人に対するパウロの切実な思いと情熱があり、彼らが律法と恵みの福音を誤解している現実を何とか解きほぐしたいという文脈を読み取る必要があるというのだ。 さらに張ダビデ牧師が特に注目するのは、ユダヤ人の間に「福音を受け入れたら律法は廃止されるのではないか」という誤解があったことだ。しかしパウロは、律法と福音が互いに矛盾するものではないと強調する。むしろ律法が持っている目的が完成する瞬間に、恵みの福音が完全な意味をもって現れるのだ、と教えている。福音は律法を排除するのではなく、律法の本来の目的(罪を自覚させ、人間が神の義に到達できないことを明らかにし、最終的にキリストへと導く手引きとなる点)を完全に果たしてくれる。したがって「信仰によって義と認められる」という教えは、新約で突然登場したものではなく、旧約でも一貫して示されてきた神の救いの方法だったのである。ローマ書4章はまさにその点を強く際立たせている。 ユダヤ人の歴史において非常に重要な二人の人物こそアブラハムとダビデだ。張ダビデ牧師によれば、パウロがこの二人を取り上げたのは実に巧みな選択だという。アブラハムは血統的にも信仰的にもユダヤ人の「父」のような存在であり、ダビデはイスラエル史の頂点といえる王権の代表であり、メシアの予表とされる人物である。ルカの福音書16章には「ラザロが死んでアブラハムのふところに入った」というたとえ話があるが、それほどユダヤ人はアブラハムを絶対的に尊い祖先とみなしていた。一方ダビデは詩篇の多くを記し、イエス・キリストの王権的血統を示す存在だった。マタイの福音書1章1節でも「アブラハムとダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と述べ、アブラハムとダビデを系譜の基準点にしている。最終的に、パウロがローマ書4章でアブラハム(4章13節、9〜12節)とダビデ(4章6〜8節)を挙げる構造は、「ユダヤ人にとって最も権威のある二大巨人を通して福音の真理を説明する」方法だ、と張ダビデ牧師は述べる。 パウロが提示する問いはこうである。「アブラハムとダビデは、いかにして神の前に選ばれ、義とされたのか?」 その答えは、ひとえに神の恵みと信仰によるものだということだ。これは福音によって突然もたらされた新しいパラダイムではなく、旧約時代から継続してきた同一の神の救いのわざだと、パウロは証明しているのだ。張ダビデ牧師によれば、パウロの論理はこうだ。「もし律法以前にすでにアブラハムが信仰によって義と認められ、さらにダビデが自らの罪を悔い、『罪が赦された者は幸いだ』と詩篇に記したのなら、それこそ福音の土台ではないか」というわけである。 まずローマ書4章1〜3節ではアブラハムの例が強調される。パウロは「アブラハムは肉によって誇ることがなかった」と言うが、それは彼が偶像を売るテラの息子であったこと、血統的にも人間的資格から見ても神の前に誇れるものなど何もなかったことを想起させる。張ダビデ牧師はこれこそ「人間は本質的に罪人であり、神の恵みなしには救いを得られない存在である」ことを強く示す記述だと解説する。実際、創世記12章でアブラハムが故郷と親族、父の家を離れて神の命令に従ったのは、彼の功績が認められたわけではなく、ただ神を信じる「信仰の行為」に過ぎなかったのだ。ゆえに聖書が「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(創世記15章6節)と記すことは、律法以前の時代にもすでに「恵みによる義」が働いていたことを示す結論へとつながる。 さらに張ダビデ牧師は、「働く者には報酬が恵みではなく当然の賃金とみなされるが、働いていないのに神から義と認められた者こそ本当に幸いな者だ、とパウロは繰り返し強調している」と付け加える。これはマタイの福音書20章のぶどう園の労働者のたとえ話や、マタイの福音書9章で取税人マタイがイエスの弟子となる話にもよく表れている。早くから律法を守り自らを正しいとみなしていた人々(パリサイ人)は、結局「神の全面的な恵み」を実感できずにむしろ反発したが、罪人である取税人が悔い改めた瞬間、神の恵みがその人に注がれるという逆説的真理がここに込められているのだ。張ダビデ牧師によれば、こうした物語を通して、パウロは「行いによる功績信仰」の危険性と、「恵みによる救い」の幸いを強調しているのだという。 ここでもう一歩踏み込むと、詩篇32篇に出てくるダビデの告白が登場する(ローマ書4章6〜8節)。ダビデはバト・シェバを奪い、ウリヤを殺すという悪行を犯したにもかかわらず、悔い改めるや神は彼の罪を覆ってくださった。「咎を赦され、罪を覆われた者は幸いだ」と宣言できたのは、ダビデ自身が正しかったからではなく、ただ神の愛と恵みによって罪が覆われたからである。パウロはこの詩篇32篇の言葉を引用して「ダビデもまたすでにこの恵みを体験した者ではないか。律法や旧約の礼拝規定を守ることを超えて、罪を告白して神の赦しを受けるという出来事こそ福音が示す本質なのだと、あなたがたユダヤ人自身も知っているではないか」と語りかけているのだ。 さらにアブラハムが義と認められた決定的時点は、彼が割礼を受けた後(99歳のとき)ではなく、すでに割礼を受ける前(およそ75歳頃)のことだった。張ダビデ牧師によれば、これは割礼を「救いの前提」であるかのように考えていたユダヤ人の思考を覆す決定的メッセージだという。アブラハムが信仰の祖となったのは、血統や肉的な功績、あるいは儀式によるのではなく、純粋に信仰によって神から義とみなされた結果だったのだ。ゆえにパウロはローマ書4章を通して、救いは決して律法的な功績や血統的優位によるのではなく、イエス・キリストを通して与えられる神の恵みと、それを受け入れる信仰によるのだと、ユダヤ人たち(そして現代の私たちにも)強く主張する。張ダビデ牧師は、これこそがパウロの核心的な論理であり、パウロが長年ユダヤ文化圏で培った律法の知識とメシア的信仰体験とが一体となった精緻な教えなのだと付言している。 結局、律法は罪を明らかにし、罪人である人間が神の義の前にけっして立てないことを悟らせる装置である。しかし福音は、その罪責と重荷をイエス・キリストの十字架と復活によって背負わせることで、私たちに「値なしに与えられる義」を賜物としてもたらす。パウロが「律法は怒りをもたらすものです。律法のないところには罪の違反もありません」(ローマ書4章15節)と言うのも、そうした文脈なのだ。張ダビデ牧師は、律法が罪をいっそう自覚させ、人間の実存をその重い命令の下に縛りつけるがゆえに「呪い」と「罪の宣告」を免れ得ないのだが、イエス・キリストがそれを代わりに背負ってくださったとき、はじめて私たちは自由を得られるのだ、という点を明確に捉えるべきだと解説する。したがってパウロはローマ書4章を通して一貫して律法と福音の関係を解き明かし、最終的には「信仰による義」こそすべての人に開かれた恵みの道なのだと提示しているのだ。 Ⅱ.アブラハムとダビデが示した信仰:張ダビデ牧師が見つめる旧約の「恵み」の証拠 張ダビデ牧師は、ローマ書4章が単に神学的な概念を羅列しているのではなく、旧約の二大代表的人物であるアブラハムとダビデを通して「神の恵みがすでに歴史的に働いてきた証拠」を明らかにする章だと語る。イスラエルの民が最も崇敬し尊敬する祖先であるアブラハムと、最も輝かしい王であるダビデ。彼ら二人がそろって行いではなく信仰によって義と認められたという事実こそ、旧約と新約を結ぶ核心的な教えなのだ。 まずアブラハムに見る信仰の核心は、「死者を生かされる神への確信」であると要約できる。創世記15章で神はアブラハムに「あなたの子孫を星のように数多くする」と約束されたが、現実的にはアブラハムは百歳近く、妻サラもすでに生理が止まり、子を宿すことは不可能という絶望的な状況だった。しかしアブラハムはなお神の約束を握り続け、張ダビデ牧師はこれを「復活の信仰の先取り」と見ることができると解説する。ローマ書4章17〜19節にもあるように、アブラハムは「望み得ない時に望みを抱いて信じた」。結果としてサラは懐妊し、信仰の子イサクを生み、その後天の星や海辺の砂のように数多くの子孫が繁栄した。パウロはこれを指して「神は無いものをあるもののように呼び、死者を生かされる方」であることが示された例だと言及するのである。 さらにアブラハムはイサクをいけにえとして捧げよとの命令を受けたときでさえ、「神ご自身が備えてくださるだろう」という信仰を示した。創世記22章の物語は、結局アブラハムが「死さえも命へと変えられる神の絶対的な力」を信じていたという強い告白である。ローマ書4章20節以下に「彼は信仰が弱くならず、むしろ堅固となって神に栄光を帰した」と描写されるように、アブラハムは知識や合理的思考で考えると不可能に思える状況でも、神の言葉にのみすがった。張ダビデ牧師は、この全面的な神への信頼こそ、福音が語る信仰(神の愛と救いの約束を積極的に受け入れる態度)の原型だと説明する。 次にダビデの例が挙げられるが、張ダビデ牧師はダビデが詩篇32篇で「咎を赦され、自分の罪を覆われた者は幸いだ」と歌っている部分に注目する。ダビデはバト・シェバの件で致命的な罪を犯したにもかかわらず、ナタン預言者の戒めを聞いて悔い改めることで命を救われた。これはまったく神の赦しのおかげであった。律法の定めに従えば、ダビデは間違いなく死刑に値する(姦淫と殺人という重大な罪だから)はずだった。にもかかわらず、神が彼を赦し、ダビデの罪を覆ってくださったのだ。張ダビデ牧師は「人間の観点からすれば刑罰を免れる術はなかったにもかかわらず、神が罪を覆ってダビデを受け入れられたのは、旧約にもすでに十分な恵みが作用していたことを示す出来事だ」と解釈する。 このように、旧約の二人の霊的巨人がいずれも「恵み」と「信仰」を通して義と認められた事例こそ、パウロの論証の要である。だからこそユダヤ人が「異邦人は律法なしでどうやって救われるのか?」と問い返すとき、パウロは「アブラハムでさえ律法なしに、しかも割礼を受ける前にすでに義と認められたではないか。ダビデも同様に罪の赦しの恵みを経験した。であれば、福音がユダヤ人にも異邦人にも同じく『信仰』によって開かれるのは、何ら不思議なことではないではないか」と答えるのだ。張ダビデ牧師は、この点で「パウロこそユダヤの歴史と旧約神学を最も深く理解した使徒でありながら、同時にキリストにあって与えられる新しい契約を最も説得力をもって説き明かす神学者でもあった」と評価する。その観点から見ると、張ダビデ牧師がとらえるパウロ像は、単に神学的概念の論争をする人ではなく、自らの民族が経験してきた歴史をイエス・キリストにあって再解釈し、「すべての民族に開かれた救いの道」へ導こうとする、真の牧会者であり説教者としての姿が際立つというのだ。 結局、救いは血統によって世襲されるものではない。教会もまた「肉によって」ではなく「信仰によって」次世代へ受け継がれるべきである。張ダビデ牧師は、今日の教会が世の権力や富、家柄が世襲されるように、信仰の職分を世襲しようとするなら、それはまさにローマ書4章が指摘する問題と変わらないと指摘する。パウロが4章13節以下で「アブラハムとその子孫への約束は、律法を通してではなく、信仰の義によって与えられた」と語るのは、決して肉的基準や律法的功績ではなく、「神が約束されたことを信じ、その約束の内に生きる者」こそが真のアブラハムの子孫なのだ、と宣言しているのにほかならない。 Ⅲ.十字架と復活によって完成される称義 張ダビデ牧師は、ローマ書4章の最後の部分(特に4章23〜25節)に焦点を合わせる。ここでパウロは「アブラハムが義と認められたという事実は、アブラハム一人だけのためではなく、私たちすべてのためでもある」と宣言する。そしてその根拠として「私たちの主イエスを死者の中から甦らせた方を信じる私たちにも、同じように義と認められる」と語るのである。つまり張ダビデ牧師によれば、パウロは旧約のアブラハムの出来事を雛形として、新約のイエス・キリストの死と復活を結びつけていることがわかる。アブラハムが「死んだも同然のサラの胎から命が生まれる」という「復活的奇跡」を信じたように、新約時代においてはイエスが死なれ、そして復活されることで、私たちにも同じように永遠の命と義が与えられるのだという。 さらにパウロは「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた」(ローマ書4章25節)と続ける。張ダビデ牧師は、これを「代償的な死と、その死を確証する復活」とまとめる。罪人が犯した罪に対する刑罰をイエスが代わりに負われることは、「神の正義」と「神の愛」を同時に満たす出来事だ。これによって人間は法廷で無罪判決、すなわち称義を得る。しかしそれだけで終わらず、復活によってその贖いのわざが完全であることが示され、イエスが死をも打ち破られた方であることが証明される。張ダビデ牧師は、復活がなかったとしてもイエスの代償の死の力が少しも損なわれるわけではないが、復活によって救いの完成が世に明確に示され、信じる者はその復活の命にあずかることで、はっきりとした自由と栄光に至るのだと語る。 すなわち十字架は「罪の赦し」を意味し、復活は「新しい命」を意味する。張ダビデ牧師は、これこそ救いに関するパウロ神学の二大柱だと考えている。パウロがローマ書4章を通して証言しようとしたのはまさにこれである。旧約におけるアブラハムとダビデの出来事を通して、神の恵みがどのように働いてきたかを説明し、それがイエス・キリストの死と復活という出来事を通してすべての民族に完全に開かれたと宣言するのだ。「私たちは罪のためにイエスが引き渡された」というのは、本来罪人が処罰されるはずの場所にイエスが身代わりとして入られたことを意味する。パウロはこれをしばしば「代表の理論」と呼んでいると、張ダビデ牧師は補足する。アダムがすべての人類の代表となって罪を広めたのなら、イエスこそが新しい人類の代表となって罪の代価を支払い、義を転嫁(インプット)してくださるお方なのだ。 このような「二重の転嫁」あるいは「壮大な交換」の思想は、私たちのすべての罪がイエスに移され、イエスの義が私たちに与えられるという驚くべき福音の本質である。張ダビデ牧師は「もし私たちがこの交換の現実を本当に心から受け入れるなら、律法の呪いから完全に解放されたと確信できるだけでなく、日々復活のいのちの力を体験できるようになる」と語る。それだけでなく、教会共同体においても律法的規定や血統的伝統、人間的功績や誇りを打ち立てるのではなく、ただイエス・キリストの十字架と復活を誇り、すべての聖徒が同じ恵みに浴しているとの告白の上に一つとなることができるのだ。 要するに、張ダビデ牧師はローマ書4章を「アブラハムの信仰とダビデの悔い改めの経験を通して、律法時代にもすでに恵みと信仰による救いの原理が働いており、それをイエス・キリストの十字架と復活によって完全に成就された神の救いのご計画を宣言する章」と要約する。それはパウロの本論であると同時に、キリスト教福音の核心の一つでもある。律法は罪を自覚させ、人間の無力さを宣言するが、キリストの死と復活はその罪を完全に解決して私たちに義の身分を授ける。そしてキリストの栄光の復活にあずかる道こそ「信仰」である。アブラハムが望み得ない状況でなお望みを抱いて信じたように、新約の時代を生きる私たちも、イエスが死に打ち勝って甦られた事実を信じることによって義と認められ、ついには復活の命をも得るという結論である。 ゆえに張ダビデ牧師は、今日の教会がローマ書4章を通して学ぶべき教訓をいくつか挙げている。第一に、信仰の本質は律法の遵守ではなく「恵みを信仰によって受け入れる」ことである。第二に、旧約の聖徒たちもすでにこの原理を体験していたという点で、旧約と新約は断絶ではなく連続性をもつ。第三に、イエス・キリストの十字架は罪の赦しの完成であり、復活は称義の確証であり、新しい命の出発点である。第四に、「信仰」とは望み得ない状況でも神の約束にすがる態度であり、その時にこそ神の力が現れる。最後に、このような信仰に基づく救いの共同体は、個人の功績や血統、地位、人間的権威ではなく、ただ神の恵みを高く掲げる。これこそパウロの教えであり、律法主義に陥りやすい教会や、逆に律法を軽視して福音の責任を忘れがちな共同体の双方が必ず押さえなければならない重要な真理なのだ。 最後に張ダビデ牧師は、ローマ書4章25節こそが救いのメッセージを劇的に要約した本文だと語る。「イエスは私たちの咎のために死に渡され、私たちを義とするために甦られた。」ここには十字架と復活、罪の赦しと称義、そのすべての核心神学が集約されている。人間が自力では贖いきれない罪の代価をイエスが引き受け、その贖いのみわざが完全であることを示す証しが復活である。信仰とはまさにその愛の招きを受け入れることであり、アブラハムが命がけで神の約束に従ったように、私たちも甦られたイエスを心から信頼し、自分中心の生き方を捨て、日々十字架の恵みと復活の力の中を歩むことである。張ダビデ牧師は、これこそキリスト教信仰の真髄であり、またローマ書4章を通してパウロがユダヤ人と異邦人を問わず、あらゆる時代・あらゆる民族に伝えようとした永遠の福音だと重ねて強調する。 ローマ書4章が語るところ、すなわち「人間の功績ではなく、全面的な恵みと信仰による救い」が旧約時代から連続しており、その頂点がキリストの十字架と復活によって完成されたというのが、本稿の要旨である。ローマ書4章のこの大きな流れは、すべての時代の信徒、そして現代の教会にもなお有効であり、重要な真理として適用され得ることを最後に強調したい。

パウロのキリスト論 ― 張ダビデ牧師

福音の絶対性と張ダビデ牧師の事奉 コロサイ書2章1節から始まるパウロの教えは、パウロ自身が開拓せず、一度も訪れたことのないコロサイ教会とラオデキヤ教会に宛てた獄中書簡という点で、特別な意味を持っています。この手紙には明確な目的がありました。当時、コロサイ教会がグノーシス主義や仮現説などの誤った教えに動揺しているとの知らせを受けたパウロは、彼らと実際に顔を合わせたことがなくても、愛と牧会的な熱意を惜しまず注ぎ続けようと決意したのです。実際、教会に注ぐパウロの愛と情熱、そして教会の揺らぎを支えようとする牧者としての強い思いは、この手紙を読むすべての人に深い挑戦を与えます。 現代でも、教会が世俗主義や歪められた思想によって揺さぶられ、さまざまな挑戦を受けている現場は数え切れません。21世紀の教会もまた、コロサイ書を通じて同じメッセージを耳にします。すなわち「福音を固く握り、決して揺れ動かないように」というパウロの切実な訴えです。そして「イエス・キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」というパウロの確信は、時代を超える価値ある指針となります。 張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えを現代の教会と社会情勢に合わせ、さらに具体的かつ実践的なかたちで提示してきました。彼は、教会が「福音を薄めようとする勢力」や「異端の虚偽思想」によって動揺している様子を注視しつつ、パウロがコロサイ教会に送ったこの獄中書簡を何度も説教の場で取り上げます。キリスト論が教理の中心中の中心であり、イエス・キリストとは何者なのかがしっかり定まっていなければ、他のすべての教えが揺らいでしまうと力説してきました。特にイエスの神性と人性を歪める異端の主張や、キリストの救いのわざを半端なものにしようとする世の声を見抜きながら、パウロが「キリストは仮現ではない。純粋に霊的存在ではなく、実際に肉体を取られたお方だ」と弁明した核心を、今こそ強調すべきだと説くのです。 コロサイ書1章に示される中心的テーマは、パウロのキリスト論、すなわち「イエス・キリストはいかなるお方なのか」という問いに対する圧倒的解答です。イエスこそ創造の主、教会のかしら、またすべてを超越する神であるという真実をパウロは強く訴え、イエスの神性に対する揺るぎない告白を示すことで、教会が世の虚偽や論理に足をすくわれないための堅固な根拠を築きました。張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えこそ「福音の絶対性」を示す証しだと語ります。この福音は人間のいかなる自己正当化も必要とせず、私たちのうちに満ち満ちた完全さをもたらします。キリストを深く知れば知るほど、福音が私たちを真に豊かにすることを体験するからです。そのため、張ダビデ牧師は「主はわたしの満足である」という告白が、教会やクリスチャンの唇から絶えず溢れ出なければならないと力を込めて説きます。 また、この手紙が獄中で書かれたという事実も見逃せません。ローマの牢に囚われ、身体的には教会員たちとともにいられなかったパウロは、「わたしは肉体では離れているが、霊ではあなたがたと共にいる」という表現を用いて、共同体がもつ霊的連帯の力を改めて示しました。張ダビデ牧師は、この連帯こそが教会の核心であり、いつの時代でも「共に在る」ことによって教会を支えてきた原動力だと語ります。たとえ建物に乏しく、財政が十分でなく、あるいは迫害や抑圧のただ中にあっても、教会が教会でいられるのは「イエス・キリストの福音」と「信徒間の霊的つながり」に他ならないのです。そしてこれが張ダビデ牧師の事奉の基盤でもあります。信仰の自由が制限される地域で働く宣教師にも、あるいはアメリカ国内で多様なセンターを開拓している人々にも、「たとえ離れていても私たちは霊的にひとつだ」というメッセージを絶えず伝え続けています。 実際、張ダビデ牧師が属する共同体は広大な土地を所有し、さまざまなセンターや支部を設立しており、多くの人々がその場で「定着の地」を経験しています。広大な敷地内には事奉本部や礼拝施設、自立型ビジネスセンターなどが次々に建設されているにもかかわらず、張ダビデ牧師は絶えず強調します。あらゆる「空間の拡張」は教会の本質の拡張、すなわち「福音の絶対性」を証しする道具でなければならない、と。もし福音が取り除かれ、単に組織や企業の建物だけが増えるのであれば、それは霊的な核を失った「殻」にすぎないのです。 パウロが説いたキリストの卓越性と、ただ主にあって得られる真の豊かさこそ、現代の教会が回復すべき最も切実なメッセージでしょう。当時はグノーシス主義が「イエスには他の哲学や秘められた知識を付け加える必要がある」と主張して福音の純潔を曇らせていましたが、今日の世俗主義もその本質は大きく変わりません。物質至上主義、個人主義的思考、そして聖書の真理を偶像化したり無視したりする二面性が、教会を分断し混乱させています。人々は仕事や生活費に追われ、科学技術の発展の前で信仰が時代遅れと見なされることさえあります。しかし張ダビデ牧師は、数え切れない礼拝や説教、養育事奉を通じて、このギャップを埋めるべく努力してきました。パウロが牢の中にあっても教会に向けて情熱を注ぎ続けたように、教会が担う使命は、どのような状況に置かれても光を放つべきだと繰り返し教えています。福音をいささかも加減せず語り、「イエス・キリストが何者であるか」を中心に据えて説くとき、世の嘲弄や疑念にさらされようとも、教会は揺らがないのです。これこそ「福音の絶対性」であり、張ダビデ牧師が伝えようとするメッセージの骨格でもあります。 揺れ動く教会への思い パウロの手紙には「動揺する教会を支えたい」という熱い思いがあふれています。パウロは異邦人伝道の中心的人物として多くの地域を巡り、その過程で生まれた教会を決して忘れませんでした。コロサイ書によると、パウロはこの教会を直接開拓した経験もなければ、信徒に直接会ったこともありません。しかしグノーシス主義や仮現説といった誤った主張によって教会が惑わされていると聞くや、パウロはコロサイ書1章から2章にかけてキリスト論を明確に打ち立て、イエスの神性と人性がなぜ揺らいではならないのか、そしてなぜキリストのうちに真の完全さがあるのかを詳細に説き起こしたのです。 張ダビデ牧師が注目するのは、このパウロの情熱です。パウロは一度も直接会ったことのない信徒たちのために「わたしの肉の顔を見たことのない人々のために祈っている」と告白します。これは教会がどれだけ尊い存在であるか、そして教会全体が揺らぐとき、どんな姿勢を取るべきかを示す明瞭な指針にもなります。教会はひとつの体である以上、地理的な隔たりを超えて互いに支え合い、福音によって互いを覚醒させていく必要があるのです。こうした姿勢は現代においても最も必要とされる信仰の実践と言えます。 実際、張ダビデ牧師は複数の事奉拠点を設け、多様な形で人々を招き、訓練することに力を注いできました。たとえば、ドーバービジネスセンターをはじめ、マウント・オリベット、ANC、WOAといった各地の拠点を用意し、さまざまな言語圏から信徒たちが集まれるようにして、そこから礼拝と御言葉の教育によって福音を広げています。大陸から大陸へと往来し、福音のさらなる拡張を目指すこの戦略は、パウロが「全世界がわたしの教区」と言い放ったウェスレーの宣言にも通じるものがあります。もちろん、その過程で困難が全くなかったわけではありません。ある土地の契約が破談寸前になったり、6か月間退去を拒む家主との交渉が長引いたりといった問題も生じました。しかし張ダビデ牧師は、そうした出来事を単なる行政手続きや金銭上のトラブルではなく、「教会拡大のピースがはまる霊的プロセス」として捉えています。 揺れ動く教会を支える思いは、土地の確保から財政的な裏付けを整えるあらゆる過程に通底しています。その中で常に強調されるのは、「わたしたちは主の体である教会を通して世界宣教を担う。そして教会は栄光に満ちた神の御業のただ中にある。だから決して揺れ動いてはならない」という点です。パウロが「わたしはあなたがたとは離れているが、心では共にある」と語ったように、教会の共同体はひとつの家族であり、肉体と霊が繋がる有機体なのです。張ダビデ牧師はシェパードミーティングなどの祈りの場で、このことを何度も繰り返し説いてきました。共に礼拝し、祈り、ここまで導かれた神を思い返すように、と。さらに、ドーバー地域をはじめ、北米や南米、アジア、ヨーロッパへと広がる教会が同じ価値観を共有できるように導いています。 このように揺れ動く教会を支えるために大切なのは、福音が真ん中で揺らぐことなく宣教されることです。パウロがコロサイ書で強調したのは、「他の哲学や知識によって補強する必要がある」という考えは最終的にイエス・キリストの絶対的主権を覆すだけだという点でした。グノーシス主義は「福音だけでは不完全で、世の知識や哲学を加えなくてはならない」と言い、仮現説は「イエスは霊的に存在するだけで、肉体を取られたわけではない」と主張します。当時はもっともらしく聞こえたかもしれませんが、結局それはキリストの救いの御業を揺るがし、十字架と復活の力を曇らせる毒となります。現代も同様です。学問や哲学、文化や芸術がどんなに発達しても、人本主義や世俗主義という枠組みの上にあっては、イエス・キリストの全能性と受肉の神秘を捉えきれません。だからこそ教会は常に福音が損なわれぬよう目を光らせていなければならないのです。 張ダビデ牧師は、そうした中で「どんな壮大な論説も巧妙な理論も、真の福音の代わりにはなれない」と繰り返し指摘します。教会が財政を整え、建物を拡張し、新たなビジネスを始めることは意義があるでしょう。しかし、それらの土台に福音が据えられていなければならず、まずは動揺する教会に駆け寄り、祈りをもって支える心が不可欠です。牧師が信徒をケアするのも、決してこの核心から外れてはなりません。だからこそ、教会が単に数的拡大や財政的豊かさだけを目指すべきではないのです。パウロがコロサイ教会に「キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」と語ったとき、すでに教会は「すべての豊かさ」を所有しているといっても過言ではありません。教会がどんなに乏しく見えようとも、わたしたちには既に聖なる豊かさが与えられているのです。この真理に深く根ざすとき、教会はいかなる揺さぶりも乗り越えていくことができます。 パウロがローマの牢から、複数の教会やその周辺の信徒の魂を案じたように、張ダビデ牧師もまた福音が求められる場所があればどこへでも出向きます。事奉の拠点はすでにアメリカ各地を越え、ブラジルやメキシコ、さらには中東にまで拡がっています。イスラム圏での宣教が活発になるや否や「殺す」という脅迫も受けましたが、張ダビデ牧師は恐れません。「主から与えられた使命は、どのような壁も超えていく」と信じているからです。これはパウロの心にも通じる確信であり、揺れ動く教会を思う愛から生まれるのです。そしてこの「教会への熱い思い」こそが、あらゆる挑戦に打ち勝ち、神の大いなるわざに加わる力の源泉となります。 キリスト論の豊かさと降誕の意味 コロサイ書1章の中心は、パウロのキリスト論です。揺れ動くコロサイ教会を支えるために、この核心的真理が前面に押し出されました。「イエスとは何者か?」という問いに対して確かな答えを得れば、教会は揺るぐ理由を失うからです。たとえ世の哲学や知識が教会へ侵入しても、イエス・キリストの完全性と神性、そして十字架と復活の真実が動かぬ柱であり続けるなら、教会は倒れません。こうしたキリスト論は、教会の教理の中でも最も重要な位置を占めると張ダビデ牧師は語ります。というのも、イエスの神性と人性について正しく理解していなければ、キリスト教は簡単に人間的な宗教や道徳運動へと変質しやすいからです。 12月を迎えクリスマスが近づくと、教会ではイエス・キリストの誕生を記念し、その意味を改めて思い巡らせます。キリストの降臨を「人類を救うための神の愛の実践」として捉える教会の伝統は、飼い葉桶でお生まれになった王であるイエスのへりくだりと謙遜、そしてついには十字架の死に至るまでの愛を思い起こさせるものです。パウロがピリピ書2章で詩のように記した通り、イエスは神のあり方と等しくあることに固執せず、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、死に至るまで従順でした。これこそ受肉の奥義であり、闇が支配する世界にも救いの光が射し込むことを告げる宣言でもあります。 張ダビデ牧師は、クリスマスの意義は単なる幼子イエスの誕生を祝う物語ではなく、パウロがコロサイ書で語った「神の奥義であるキリスト」が肉を取って来られたことを明示する出来事なのだと強調します。クリスマスは「いと高きところには栄光、地には平和」という神の御業を現実にもたらす瞬間であり、天の栄光がこの地上に具体的に下ってきた「受肉」の出来事です。もしこの受肉を否定すれば、イエスを仮現的に見る危険に陥ります。これは「霊は善で肉は価値がない」という二元論に陥るグノーシス主義とも共鳴します。しかし聖書は「ことばは肉となってわたしたちの間に住まわれた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた」(ヨハネ1:14)と告げます。福音書のこの宣言は、パウロのキリスト論とも完全に一致するのです。 ゆえに、クリスマスを迎える教会と信徒たちは、この神秘を賛美し続けるとともに、それが私たちの現実の生活にどう結びつくのかを深く黙想しなければなりません。張ダビデ牧師は、自らが担う広大な事奉地や多くの用地、いくつもの共同体が協働する事奉の姿を通して、「受肉的な生き方」とは具体的な社会や生活の只中に足を踏み入れることだと説きます。神がわたしたちのもとへ来られたように、教会もまた、この世の弱く貧しいところ、打ちひしがれた魂のもとへ出向かなければならないのです。福音の絶対性は、けっして現実から浮いた理想論ではありません。イエスが「貧しい人に福音をもたらしに来た」とルカ福音書で宣言されたように、教会は世のすべての人々にキリストの愛を届けるために召し出されています。 また、クリスマスは「教会が地上で示す喜びの理由」でもあります。パウロが喜びに満たされていたのは、イエス・キリストが万物を豊かにされるお方だからです。張ダビデ牧師も、特にこの点を力説します。コロサイ書2章3節で「キリストのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている」と記されているように、教会が味わう真の豊かさはイエスのうちにあります。世にはそれを測る基準はありません。どんなに物質的に豊かで、哲学や知識が進んでいても、キリストを知らなければ魂の真の満足は得られないのです。一方で、イエスを正しく知る教会は、たとえ目の前の財政が不十分であろうと、場所が手狭であろうと、世から嘲笑されようと、既に神の国に属するという確固たるアイデンティティを持っています。キリストにあってすべてを得ている以上、欠乏によって打ちひしがれることはありません。 実際、張ダビデ牧師は、所属する共同体の中で信徒たちがこうした豊かさを体験できるよう、数々の事奉を展開してきました。礼拝や御言葉の集会、養育プログラム、そしてシェパードミーティングのような祈りの会をはじめ、自立型ビジネスや社会奉仕活動も行いながら、教会がこの世の物質的・霊的ニーズの両面に応える場を整えてきたのです。ドーバービジネスセンターを拠点として広がる複数の関連企業や機関も、単なる経済効果ではなく、キリスト者としての仕えと奉仕を現場で実践するという点に最大の価値を置いています。「お金とは、神の恵みを体現するための手段のひとつにすぎない」というのが張ダビデ牧師の考え方です。企業やセンターが利益を上げても、それが最終的に福音伝播と教会の成長のために用いられるなら、物質さえ宣教の道具になり得ます。こうして世のただ中に教会が入り込むプロセスこそが「受肉的生き方」の模範だと語ります。 これらすべてはクリスマスの意義と直結しています。「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言葉を土台に、教会は今もなお世を見捨てず、愛によって寄り添う責任を担っています。教会が世に扉を開き、世が教会を仰ぎ見るとき、そこに究極の希望と喜びが生まれるように助けることこそ、「受肉の福音」の拡張です。コロサイ書2章でパウロが「キリストのうちにすべての満ち満ちたものが宿っている」と説いたように、偽教師がいかに教会を動揺させようとも、教会が「イエスこそ知恵と知識の宝のすべてを含むお方」という事実を握っている限り、決して倒れません。 クリスマスが近づくにつれ、張ダビデ牧師は「栄光と平和」という言葉を繰り返し口にします。天使たちが歌った「いと高きところには神に栄光が、地には御心にかなう人々に平和があるように」という賛美は、神が人として来られるという想像を超えた計画が、私たちにもたらした驚くべき贈り物です。人間の力では到底たどり着けない高みから神ご自身がこの低い地上に降り、傷ついた人々を回復し救いへ導かれました。教会がこの事実を心から喜び賛美し、この福音を全世界に伝えていくとき、たとえ場所がどこであれ、福音は限りなく広がっていくでしょう。実際、張ダビデ牧師は北米のみならず、中南米、アジア、ヨーロッパ、中東へと事奉を継続的に拡大し、クリスマスごとに宣教地と共に賛美し感謝の礼拝をささげています。たとえそこが荒野のような地であっても、かつて神がマナとうずらを与えられたように、日々の糧を備えてくださると信じているのです。パウロが牢中にありながらも一抹の疑念なく福音を語り続けたように、教会もどのような環境でも「キリストの満ち満ちた力」を享受している存在であることを告げ知らせるのです。 張ダビデ牧師は、このような事奉の目的を常に明確に示します。「教会が神の福音を世に現し、霊的・物質的な必要を満たしながら、最終的には神に栄光をお返しする」。ゆえに彼がドーバー地域でビジネスセンターを拡大し、各大陸にセンターを建立しようとする時、人々はそこに「建物を建てる」以上の意義を見いだすのです。そこにはすでに「ことばが肉体を取られた神」という受肉の真理が刻まれているからです。ことばが人々の間で光を放ち、教会が世へと送り出されてキリストの体を現していく。その過程でときに財政や手続きの壁にぶつかることもありますが、結局は神の摂理の中で一つずつ道が開かれていきます。ある土地を必要とするならば神がタイミングと方法をもって与え、思わぬ形で財政を満たしてくださる体験もたびたび味わうのです。こうして単に物的な拡大にとどまらず、教会がより広い霊的地平を抱くきっかけにもなります。 特にクリスマスを前にした12月には、教会は一年を振り返り、感謝の思いを新たにしなければならないと張ダビデ牧師は繰り返します。「年末が近づくと、私たちは感謝と賛美をもって一年を締めくくり、新しい年にはさらに驚くべき神の御業を期待すべきだ」と、彼はしばしば説教で語ります。パウロが牢の中にあっても落胆せず、むしろ教会に感謝と確信の言葉を伝え続けたように、教会もクリスマスの喜びのうちに年末を迎えることができるというわけです。「半数が死んだ状況でどんな感謝があるというのか」と嘆いたピューリタンたちさえ、まず神に礼拝を捧げました。同様に、私たちも人生の荒波や痛みがあったとしても、最後は主の前に感謝と賛美を捧げることが、クリスマスの精神を体現する歩みなのです。 結局、コロサイ書が強調するキリスト論、すなわちイエス・キリストこそ神の奥義であり、そのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されているという事実は、教会共同体と現代の信徒に三つの重要な視点を提示します。第一に、イエス・キリストを深く知ることこそ、あらゆる信仰生活の基礎であるということ。第二に、教会が異端や世俗主義の揺さぶりに直面するたびに、パウロのキリスト論的確信を握りしめねばならないということ。そして第三に、肉を取って来られたイエスの受肉は、教会が世のただ中で福音を実践していく大きな動機を与えるということです。だからこそクリスマスは尊いのです。幼子イエスの誕生が心温まる物語にとどまるのではなく、救い主が実際に来られたという福音の核心を再確認させるからです。この確かな土台の上に立つなら、私たちはどのような場所でも、主が既にこの地を治めておられ、人生の重荷がキリストによって真の意味を得ることを明かしするようになるのです。 張ダビデ牧師はこうしたメッセージを伝えつつ、「皆さんの人生は決して退屈ではない。主にあるとき、常に新しい世界への導きがあり、私たちを通してさらなる実りを結ばせてくださるのです」と語っています。実際、彼の事奉の現場では2世たちが楽しそうに修養会や礼拝堂を駆け回り、海外から来た宣教師たちがANCやドーバー地域を訪れ、多様な文化を交わし合う光景が見られます。異なる世代や文化が融合しながら福音を目撃する様は、まさに受肉の精神が具体化する小さな祭典のようでもあります。そうした場が生まれるたびに、コロサイ書のメッセージも高らかに宣言されます。「キリストのうちにすべてが満ちている。他には代えられない」と。 年の瀬が近づくにつれ、教会は新年の事奉に向けて次なる一歩を計画します。張ダビデ牧師は、その際にコロサイ書2章2~3節にある「キリストのうちに隠された知恵と知識の宝」を思い起こすよう強く勧めます。どんな試練があっても、私たちはすでに宝を所持しているのですから、ためらわず新しい挑戦に踏み出そうというのです。世界200か国に視野を広げ、3千人、7千人、それ以上のリーダーを育成し、弟子を派遣し、現地教会を根付かせる―そうしたビジョンも、決して絵空事ではなく、キリストにある満ち満ちた力を信じるがゆえに実現可能なのだと言います。教会がどんなに小さく見え、財政が乏しくても、聖霊がとどまるならば巨大な障壁をも乗り越える力が与えられるのです。 締めくくりに、張ダビデ牧師はしばしば「イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」と祈りを結びます。これは、私たちの計画や行動、すべての奉仕がどこから始まり、どこへ帰結していくのかを明確に示しているのです。私たちの思いやビジョン、そしてあらゆる労苦はこの御名のために存在します。福音は教会の存在理由にして目的であり、キリストによって与えられる救いや命こそが教会のアイデンティティそのものです。教会がこの本質をしっかり守るとき、揺るがされることなく神の国を拡張していけるのです。 以上見てきたように、張ダビデ牧師はコロサイ書に示されるパウロのキリスト論を、現代の教会に生き生きと伝える説教と事奉を通じて、揺れ動く教会に向かって「主にあって揺るがないように」と訴え続けています。福音は完全であり、イエスは真の王であり救い主であり、教会は主の体であるという確信が揺らげば、教会はたちまち世俗主義や異端思想の餌食になるでしょう。しかし、その確信が堅固なとき、教会は地理的・文化的・政治的な境界をも越え、命のことばを届け、「ことばが肉体を取られた」イエス・キリストの愛を実際の行いによって示すことができます。そしてまさにその瞬間、私たちはあらためてコロサイ書に込められたパウロの思いに触れます。「肉体では離れているが、霊においては共にいる」という一文に秘められた霊的な絆と共同体意識は、時代を越えて私たちにも息づく真理なのです。クリスマスという節目の時に、教会がより強く握るべき真理とは何か、コロサイ書2章の教えを通じて改めて確かめられれば幸いです。張ダビデ牧師の事奉と教えも、この方向性を見失うことなく、今後も教会が揺れ動くたびに福音へと立ち返るための霊的指針となるでしょう。イエス・キリストのうちにこそすべてが満ち満ち、知恵と力、そして救いの恵みが与えられているという真理が、教会の未来と世界宣教の道を照らす希望の光となることを切に願います。